政治家と学歴

雪斎先生の政治と「階級社会」を読む。私は大学院を出ていないので学歴ではとうてい雪斎先生に及ばないが、学部を卒業した大学の位置づけやレベル、エリート家系に生まれたわけではないという境遇、共通点は多いがゆえにこの辺りの感覚は近いものを感じる。
恵まれた境遇にあって、政治を志すならば最低限、旧帝大くらいは出ていてしかるべきだとの考えは私にもある。私大ではコネクションが左右する場合もしばしばあるがゆえに、実力を明示的に示すことは出来ない。
私とて(そしておそらく雪斎先生とて)、刻苦して地位を掴む田中角栄型のビルドゥングスを否定しているわけではない。学歴もなければコネクションもないところから有力企業を立ち上げ、政界で頭角を現すこと自体、角栄の圧倒的な能力を明示している。
旧帝大を卒業することはそれに比較すればはるかに容易である。私が要求していることは実際にはごくささやかなことなのである。
つまり受験競争で勝ち上がってきた能力くらい明示的に有権者に示せ、ということである。
この部分の雪斎先生の論は良い。良くないのは、鳩山内閣は近年の自民党内閣と比較すれば学歴的には遥かに改善されている点をまったく無視していることだ。
鳩山首相宮澤喜一首相以来となる東大卒の首相である。ただし法学部卒ではない点を揶揄するむきもあろうが、スタンフォードでPhDをとっていることから、学力的にトップエリートにあることは間違いない。
麻生内閣ではそれでも比較的、旧帝大卒の大臣が多かった。彼らの殆どは世襲政治家ではなく、経済金融関係の実務能力が問われる任に置かれていた。
つまり傾向的にいえるのは、学力・学歴と実務能力は多くの場合、比例関係にあるということだ。
早大、慶応大卒のみならず、東大、京大の卒業者をも抑えて、成蹊大学卒業者や学習院大学卒業者がトップにたてる大組織は政界くらいのものだろう。
もっとも熾烈な能力が要求されてしかるべき政治の世界において、学歴を通して能力を明示的に示せない人たちが淘汰されずに残っているわけである。


人の世に、幸不幸があり、格差がある。
私は運命論的にその現実を受容はしないが、そういう現実があるのは事実である。
であるから、富豪の家に生まれる者もいる。人は生まれるところを選べない。
問題はその境遇に甘えて、克己しないことである。
学習院卒の首相を持ったのは自民党民主党か。
成蹊大卒の首相を持ったのは自民党民主党か。
雪斎先生の克己を政治家に求める論は良い。しかしそれを以ってして民主党を非難するのは単に事実を踏まえていない。