政治における人材登用

政治の人材とは何かを計るのは難しい。先進各国の例を見ても、英米の間でもかなりの相違があるし、それが成功しているのか否かを判断するのは相当に困難だ。
古典や語学に通暁していたからと言って、それがそのまま政治的人材であることを保証するかというとそうでもない。一高-帝大、あるいは陸軍士官学校と言ったメリットシステムは戦前の日本でも整備されていたが、それらポスト元老後の政治的人材の下で、日本は敗戦したのであるし、戦後の、日比谷高校-東大法学部に代表されるメリットシステムは少なくとも昭和50年代まではそれなりに機能していたわけである。
英国のオックスブリッジの人材下で英国は英国病を抱えることになり、それを打破したマーガレット・サッチャー自身、オックスフォード卒業ではあるが、彼女の専攻は化学であり、伝統的な古典教育を廃したことから、母校から唯一名誉学位が与えられなかった英国元首相となっている。
アメリカの場合、有名大学が私学中心であるために、ある種の蔭位が公然と行われているが、アリストクラットも支配することと、アリストクラットが支配することは似て非なるものだ。経歴的に叩き上げの人が、政財界で要職につくことも多く、人材登用システムが破綻しているとまでは言い切れないだろう。
ただ、高学歴化の進展に伴い、学歴の重要性が増し、それが結果として、アリストクラシーの強化につながってゆく可能性はある。
政治における人材登用と人材育成は実はまた別の問題である。
リスクヘッジとして、多種多様な人材が政界に供給されるルートがあるかどうかが問題なのであって、ENAやオックスブリッジがどうだという議論をする必要は差しあたって無いと私は思う。
何故ならばそういう意味におけるエリート養成は、どこの国でも必然的に生じるものであり、日本でもすでにシステムとしてそういうものはあるからである。
問題はもっと単純かつ限定的で、要は政治における世襲が余りにも多すぎるというだけのことであって、積極的な人材登用を政党が行っていない点に問題があろう。
例えば、私が卒業した大学に自由民主党支部があったとは記憶していない。あるいはあったのかも知れないが、目に見える活動はまったくなかった。
有名大学に政権党の支部がないことは英米ではちょっと考えにくいだろう。大学における政党支部は、単に支持を広げる意味合いのみならず、将来の政治的人材を発掘するシステムの一環を担うからである。
そういうことを意識的に行っていたのは日本ではおそらく共産党だけであり、選挙区と政治家個人の癒着、中選挙区制度がそうした状況を補強していたといえる。
利益共同体の外部にいる人たちを重視する必要がこれまでの自民党に無く、必然的に政治的人材を大学生の時から養成する必要も無かったからやっていなかっただけのことであって、そうした状況が崩れた今ならば、自民党は生き残るために大学に政党支部を開設するべきだろう(もちろん民主党もやるべきだ)。
つまり日本における政治的人材の問題は徹頭徹尾、政党の問題なのであって、古典がどうだとか、語学がどうだという話ではない。
もちろんそれらも大事ではあるけれど、英会話・英語の読み書き程度は政治的人材というくくりでなくても、難関大学の学生なら当然求められているだろうし、多少意識的な人ならば中国語は第二外国語で学習するだろう。
古典は、政治的人材に教育として読ませるという性格のものではなく、政治的人材であるならば古典は読んでしまっているものである。
英語や古典の知識は、エリートに与えられるプラス補正ではなくて、既にそれがあるのを前提として、そこから始めるスタートラインである。