事業仕分けについて

それぞれの立場でそれぞれの意見はあるだろうが、もちろん個別に見ていけば、不適当なことや横暴なことは多々あるかと思う。しかしブルドーザーが通る時、雑草が踏み潰されるのは止むを得ないことであり、兵は拙速を尊ぶというのはこういうことだろうと思う。
スーパーコンピュータの例ばかりが言われているけれども、科学立国と言われると、無条件に平伏していたのがこれまでの姿であって、聖域を作らない、まさしく聖域なき構造改革のためには、タブーを作らないということだろう。
そもそも国の事業なのだから、何らかの公益性があるのは当たり前なのであって、当事者たちからすれば、廃止はもちろん削減でさえとんでもないとなるのも当然なのである。
そうした公益性を足し算していった結果、財政規模が無制限に拡大していったのであり、どこかで引き算の発想を持ち込まなければ、財政均衡など夢のまた夢である。
スーパーコンピュータ以外の削減ではずっと妥当な判断もあるはずだが、スーパーコンピュータでさえ聖域視しないスタンスがなければ、そうした妥当な削減でさえ不可能である。
蓮舫議員は分かった上で、役目として憎まれ役をやっているだけのことであって、彼女を批判している人たちは政治家を育てる気がないのだろうというしかない。
その必要性と費用対効果について専門家がきちんと論破できれば、そもそも事業縮小ということにはならないのであって、科学者だったらそれをする必要は無いというのは単に社会人として非常識な甘えである。
財源は限られているのでありゼロサムであり、そこにあるカネは、社会福祉や教育のためにも使わなければならないカネなのである。歴史の法廷云々で言うならば、ホームレスが蔓延したり、失業が増えて自殺者が増大することについても、歴史の法廷に立つ覚悟を、持たなければならない。ノーベル賞受賞者の某氏こそその覚悟はおありか?
もっとも、基礎研究や長期的な事業については、必ずしも十全に費用対効果を示せる性格のものではそもそもない。出来得る限りでは示すべきだが、限界があるのは止むを得ないことだ。
大所高所から判断が必要ならば、より上位の権力、菅大臣や鳩山首相が判断をすれば良いのであって、検事役の蓮舫議員にそれを求めるのは筋違いである。
下関母子殺人事件で弁護士たちを弁護したからと言って非難するのが筋違いであるのと同様である。