背反する利益

善意から何かしようとしない方がいいんじゃないかと最近はそう思わなくもない。
痴漢冤罪の事例では、以前よりは物証が求められるようになっているが、元々、物証確保が難しいから被害者の証言が過剰に重視されるようになったのだ。常習的な痴漢犯罪者は、あらかじめ物証が残らないようにしているだろうし、「じゃあ、証拠を出せ」というのが彼らの逃げ口上でもあった。
そういう状況の時に、何とか状況を改善しようとする善意が結果的に痴漢冤罪を多発させることになった。
もちろん、痴漢も犯罪ならば、冤罪被害は国家による犯罪と言って良いものである。
そういうゼロサム対立が生じるような場合、まず避けるべきはデジタルな思考であろう。味方でなければ敵、というような思考が、痴漢被害や痴漢冤罪を増大させることにつながる。
冤罪を発生させないよう配慮しつつ、痴漢被害を抑制する対策は可能である。正確に言えば出来ることはある。
女性専用車両の導入はそのひとつだろう。
また、痴漢犯罪が告発された時に、取調べが誘導的でないか等々の、可視化も冤罪被害を抑制する、結果的に冤罪被害を引き起こさずに痴漢被害を抑制するひとつの手段になるだろう。
しかしそのうえでも、出来ないこともある。痴漢冤罪を引き起こすような、状況証拠的にも冤罪の余地があるのにそれを無視する態度や、物証の軽視は、人権の擁護の観点から見れば出来ないことである。
そういうぎりぎりの局面において、何とかしようとすることは、国家によって人権侵害を引き起こさせようとすることである。強制収容所を言うならばそうした思考こそがナチ的と評されるべきだろう。
先だって、私が言ってもおらず書いてもいないことで、「君がケモノということは分かった」と言われたのだが、では、その部分の提示を求めたのだが、結局それはなされなかった。
問題は、そういうマインドを持つ、他人を根拠なく簡単にケモノ扱いする人が、善意からであっても、例えば女性の性被害について糾弾する時に、「人権を尊重し調整しつつ、現実に採り得る政策を模索する」のが難しくなることである。
フェミニズムは本来、単に女権の拡張を目指すというような狭いものではないと思うのだが、より普遍的な人権の尊重を考慮する時、フェミニズムの内部にあることと、その外部に視点を持つこと、両方が重要であると考える。しかしそのような視点は、「自称中道」というような語を嬉々として用いたがる人たちには期待しがたいことである。