陵辱エロゲ規制考

聖人君子じゃないけれど、エロゲなるものをやったことがない。エロゲのことをよく知らないことが、これまでこれについて語らなかった主な理由だ。
ただ、エロゲについてまったく関わりがなかったというのでもなく、エロゲを見かけたことはある。あれは確か10年くらい前か、近所のパソコンショップで、パソコンソフトをつらつらと見回っている時に、あるエロゲを見かけた。小さなショップだったからゾーニングがされていなくて、マイクロソフトエンカルタと、大戦略と、エロゲが並んで置かれているような店だった。
「パソコンのエロ本か」
くらいの気持ちで、パッケージを見たら、衝撃を受けてしまった。
中年の男が若い女性を陵辱していくゲームで、私が咄嗟に思い浮かべたのは綾瀬の女子高生コンクリート殺人事件だった。陰惨極まりないあの事件を、そのままではないにせよ置き換えてゲーム化したような内容で(正確なところは分からないが見た限りではそう受け取った)、こんなことが許されていいのか、とその時は思った。
感情論で言うならば圧倒的にネガティヴである。
ただ当面のところ、私の感情的に受け入れ難いという以上の論拠はなかった。
これに限らず世の中に対して不愉快なことは多々あったが、単に自分が愉快でないからというだけで、何かしら誰かしらを規制できるとは思わなかった。
私は女ではないので、そういうゲームを見た時に女がどのように感じるかは正確には分からないけれど推測は出来る。支配欲やら性欲の排出対象としてのモノ、もちろんそうした欲望の対象化されること自体に不愉快もあるだろうが、人間性の否定がなによりも厭わしく思うのではないだろうか。
しかしながら、私たちは生きてゆくうえで、人間性を否定されることがある。例えば消費者と言う形で。あるいは労働者、保護者という形で。それは個々の人間というよりは、統計的に扱われるということである。
私には実はちょっと特殊な属性があって、それは一卵性双生児であるということだ。すべての一卵性双生児がそのように感じるとは限らないが、少なくとも私は「双子の神秘」のように好奇の対象として扱われることが、自分の人間性に対する否定であるように感じる。
それは最終的にはメンゲレへと到る、人を材料として見なす眼差しだ。そういう感覚も、そういう立場にたたされないとなかなか理解できないだろうとは思う(メンゲレ、氏ね)。
そういう自分の感覚から敷衍して、陵辱エロゲに素材化される女性がどのような感情を抱くか、推測することは出来る。
表現の自由は大事だが、何でも許されるものではない。
ただ、と立ち止まって思うのは、そうした表現物にまず否定的感情を感じるのは、サディズム性愛が私にたぶん無いからであって、それは私が倫理的に優れているからではなく単にそういうふうに生まれついたからに過ぎない。
そうした表現物を、一般の男子中学生が切実に川原でエロ本を探すように、生きてゆくうえで切実に必要とする人はいるかも知れない。
コトが単に表現の問題ではなく、性愛の問題であることが単線的な解答を出すのを難しくさせている。
私は属性を裁くことは絶対にしたくないのだ。
表現の自由をたてにして陵辱ゲームを擁護する人に対しては、人をモノとして扱うことの非を言いたくなるし、陵辱ゲームを倫理的に攻撃する人に対しては性的マイノリティに対する不寛容を指摘したくなる。
結論を言えば、結論は出ていない。
これに限らずいろんなことに割り切りが良い人たちに対して、つねづねよくもそんなに割り切れるものだと感心したり呆れたりしているのだが、「うーむ」と呻っているくらいがちょうどいいと思う。