シンケンジャー、感想

侍戦隊シンケンジャー、非常に評判が良いようだ。
http://d.hatena.ne.jp/tsumiyama/20100210/p1
http://www.sirmiles.com/shinkengers/story1192.html
http://hirorin.otaden.jp/e85566.html
撮り貯めしていた分をさっき見終わった。
この作品をスーパー戦隊シリーズ最高傑作と私には言えないのは、よくよく考えたらこれまで4作品しかスーパー戦隊シリーズを視ていないからだ。「ゴレンジャー」「メガレンジャー(姪が好きだったので)」「マジレンジャー」、そして「シンケンジャー」である。
マジレンジャー」はJALの機内放送でOPを聴いて(子供向け放送を聴いていた)、やたら元気がある歌で、それが縁で視聴した。
シンケンジャー」は某ブログでOPが採り上げられていて、やたら格好良かったのでそれが縁で視聴した。
私は特撮の熱心な視聴者ではない。ただそれでも、日本で男の子をやっていた経験上、総計すればたぶん30や40、あるいはもっと多くの数の特撮TV番組を視聴したことがあるだろう。
それを稀少な経験とみなすか、充分な経験とみなすかは人それぞれだとしても、その経験を振り返ってみるに、「侍戦隊シンケンジャー」が相当秀逸な作品であると思うのは確かだ。
今の気分で言えば、最高傑作と言っても良いのだが、今の気分だけにしょせん主観ではあるにしてもその範囲内ですら客観性がない。
ただ、おそらくこの気分はかなり長く続くだろうと思っている。


この作品から、「パワーレンジャー」としてアメリカで販売されることがなくなり、基本的にはドメスティックな市場のみを対象にしている。
おそらくそれが吉と出たのだろう。主従関係など、現代日本でさえコメディまがいであるが、アメリカが舞台であればそれに相当する史実さえないわけである。スーパー戦隊シリーズではこれまでも和の要素を取り入れた作品はあったうようだが、ニンジャのようなギミックめいたものであり、社会制度的な側面までを描いたわけではなかったようだ。
おそらく東映は完全に海外展開を計算に入れていないわけではなく、志葉家の内装がどこかしら中国めいた、アメリカ風味の和風なのはそのせいではあるまいか。しかしながら、サムライの主従関係など、単にギミックとして和を用いることから一歩踏み込んでいるのも確かであって、脱「パワーレンジャー」がその契機になっていると思われる。
シンケンジャー」はサムライと剣をモチーフにしているだけに、東映も本領発揮し、ウシロブシ登場の回ではシンケンレッドとフワジュウゾウとの三つ巴の殺陣を見せている。
アクションの水準、その見せ方は非常に傑出している。傑作である「シンケンジャー」の中でも見所のひとつである。


実を言えば、私は当初、脚本にいろいろな矛盾があるのが気になっていた。思いつきで話を広げるだけ広げて、設定に破綻が出たり、伏線を回収しきれない駄作は珍しくないから、駄作とはいえないまでもしょせんは子供向け、場面場面ごとの絵を優先させたのだろうくらいに思っていたのだが、それら矛盾こそが伏線だった。
最終回へと至る怒涛の展開のうちに、伏線はすべて回収され、一本につながった。
見事というしかない。もちろん、設定から逆算して本を作れば当然のことではあるが、その当然のことが出来ていない本がいかに多いか。
志葉丈瑠には、実は影武者であるという、秘密があるのだが、言葉では嘘をついても映像では嘘はついていない。たとえば、先代シンケンレッドと丈瑠の父親の死の場面が映像では異なって描かれているのだが、これは先代シンケンレッド=丈瑠の父親と思えばこそ矛盾なのであって、実際には先代シンケンレッドと丈瑠の父が別人である以上、映像では嘘を言っていないのである。
こうしたどんでん返しはそれ自体が物語のカタルシスであるが、シンケンジャーはただ石つぶてを描くだけではなく、人間の波紋をきちんと描いている。
真実の志葉家当主である姫が登場し、お役御免となった丈瑠が「殿様でない自分の顔は始めて見た。びっくりするくらい何もないな」という場面では本当に涙が出た。
殿様と言っても、友達も作れず、剣と戦いに生きることを強いられ、はっきり言って虐待同然の境遇である。それも志波家当主の宿命ならば仕方もあるまいが、その宿命さえ嘘なのである。
フィクションながらこれほど酷い仕打ちもあるまいと思った。その酷い仕打ちも敢えてせねばならぬほど敵(外道衆)が強大で凶悪ならば、その脅威はくっきりと描かれなければならないのである。
外道衆は女子供も踏み潰すような文字通りの外道であり、終着点からきちんと逆算されて描かれていることがここからも分かる。
特撮作品ではありがちだが、敵ボスのインフレーション現象が「シンケンジャー」では絶対にあってはならないのは、志波丈瑠の二重に過酷な宿命は、血祭ドウコクの存在によって課せられたからである。ドウコクは最初から最後までラスボスであって、「真のラスボス」に倒されるような惰弱な存在でないからこそ、志波丈瑠に課せられた宿命が説得力を持つのである。
腑破十臓(フワジュウゾウ)のキャラクターとしての存在理由は、志波丈瑠がアイデンティティの危機に陥った際に、確かなるものとして剣と戦いを提示すること、戦いそのものに意味を見出し外道面へと丈瑠を導く水先案内人であろう。
そのためにはジュウゾウ自身が人から外道になったという経歴が必要であるし、戦いそのものに意味を見出した上で、最後の局面で「人」によって制される(丈瑠がそうであるように)、それらが必要になる。
ジュウゾウのキャラクター造形とエピソードは、最後の丈瑠との死闘の必要から逆算されて作られている。
小林靖子の脚本はそういう意味ではオーソドックスだが、王道を行くものである。
薄皮太夫もまた、ドウコクに人の属性を部分的に与えるという、最終決戦で致命的な役割を与えられている。彼女もまた、人としての属性を持たせるために人から外道へ落ち、更にはドウコクに人の属性を与えるために、最終的には人としての属性に立ち返るという、ドラマツルギー上の必要がある。
いわばジュウゾウやタユウはドラマ上の必要が具現化した存在であり、実際には極めて機械的な意図から造形されていると言えるのだが、ドラマツルギーの必要がキャラクター内部でも繰り返されているため(タユウが外道に落ちるために相当な哀しさが必要であった等々)、独立的なキャラクターとして陰影を与えられているのである。
こうして分析してみると、小林靖子は本当にごく正統的な手法を用いているに過ぎないことが分かる(これは褒め言葉である)。
志波丈瑠は志波家当主としての宿命を負う。
しかし真実は志波丈瑠は影武者であり、その宿命も偽りである。
すべてはここから逆算されて構築されているのであり、「影武者」設定は思いつきや、ごく初期に構想としてあったというレベルではなく、物語の土台、大前提である。
その宿命がすべて明かされて、裸の姿がむき出しになった時に、シンケンジャーは自分たちの意思としてチームとして再生するのであり、宿命に対する意思の勝利が最終的なテーマであるといえよう。