サリンジャー、追悼せず

ロストジェネレーションを50年代のムーヴメントだと誤解するのは、フィッツジェラルドヘミングウェイも読んだことが無いということではあるまいか。
ともあれ、サリンジャー大往生の話である。
サリンジャーはとても「上手い」小説家だという印象がある。緩急のリズム、写実的で簡潔な文体、比喩表現、そして構成。ただ、なぜか日本で読まれている作品はサリンジャーにしてはそう出来がよくないものだ。
ライ麦畑でつかまえて」が代表作として語られるのは、単にそれが長編だからだろう。まだしも"I'm Crazy"の方がざらっとしていて出来がいい。
私はサリンジャーオルテガ的な人物と捉えている。大衆への危惧をセカイ系的全能感として捉えれば、彼を青春のアイコンとみなすこともアクロバティックには不可能ではないが、基本的にはサリンジャーはむしろそうした何らかのムーヴメントの敵対者である。
リバタリアン共和党にメンタリティは近い。
ただ、サリンジャーは実際にオルテガ的な大衆の反逆の極限であるナチズムにユダヤ人として向き合った人だということは踏まえておくべきだろう。サリンジャーは早い時期から、差別心理に注目し題材として捉えていた人で、その興味がソーシャルな方向にではなくインナーへと進んだ人である。
インナーへの考察を欠いている社会的文脈におけるプロテストなど、もとよりサリンジャーの興味と評価の対象外なのである。むしろそれらは彼にとってはおそらく敵であっただろう。
ただ、社会的文脈とインナーへの関心が比較的両立していた40年代の中篇が読者にとっては読みやすく理解しやすいのであり、サリンジャーの作品の質的な頂点はこの時期の作品に求められるべきだろう。
"The Inverted Forest"や"Blue Melody"などがそれにあたる。
私としてはこの時期のサリンジャー作品を読まずに、方向性の転機となった"A Perfect Day for Bananafish"以後の作品のみでサリンジャーが語られがちであることに強い違和感を抱く。
結局のところ、ホロコーストを目撃したサリンジャーがソーシャルな存在理由を自ら保持できなくなったのがマスイメージのサリンジャーであり、それは私からすればもとより抜け殻に過ぎない。
そういう意味ではすでに彼はシーモア・グラスと共にバナナフィッシュを見たのであって、サリンジャーの遺稿として何がしらが発掘されるのだとしても、それにバナナフィッシュの影が落ちているならば何の意味も価値もないものである。
作家としては彼は既に1950年までには死んでいたのだから。