君死に給うこと勿れ

与謝野馨官房長官自由民主党を離党して、平沼赳夫経済産業大臣らと共に新党を立ち上げると言う。
「与謝野さんはリベラルなのに、極右の平沼さんとくっつくなんて野合だ」
なる批判も多々見られたが、与謝野氏は中曽根直系なので、元々、タカ派色が強い人、私は一度も氏をリベラルだと認識したことは無いが、どうして世間ではリベラルのように言われてしまうのだろうか。
与謝野と言う姓が祖母の晶子の詩、「君死に給うことなかれ」を連想させるからだろうか。しかしあれは晶子自身も言うとおり、反戦詩と言うよりは、肉親の情愛を歌ったもので、晶子が今日的な意味でどれほどリベラルであったのかは定かではない(まして、孫の馨氏には関係の無い話である)。
もし与謝野という姓から連想するなら鉄幹との類似の方が強いように思う。鉄幹は国士的な性格を持っていた人で、閔妃暗殺にも計画当初関与していたというから、与謝野家の思想的な家風がどのようなものであるかは鉄幹からこそ類推されるべきだろう。
平沼・与謝野新党には、平沼グループの面々は必ずしも全員参加ではないようで、一体、何を、どこを目指すのか、はっきりとしない。
渡辺喜美氏のみんなの党には一応、小泉改革の継承者、リバタリアニズムという思想的柱がある(非常に拡散しにくい軸ではあるが)。それと同様の軸が、平沼・与謝野新党には見えない。それが与謝野氏をリベラル視したうえで、野合、の印象につながっているのだろう。
与謝野氏が衆議院議員であることから、参議院議員選挙は氏個人の政治的利益とは直接の関係は無い。何か、焦燥的な感覚に突き動かされて、天下国家の視点から今回の行動を取ったのだろうと好意的に解釈をすることは出来るが、果たしてそれをしていったい何になるのかという気もする。
衆議院銀選挙でみんなの党が思いのほか健闘したことに刺激されたのだろうか。


今、自民党がやるべきなのは、世襲禁止の一点である。最低限、今後新しく世襲候補は公認しない、出来れば現職議員も含めて、世襲になってしまう地盤からの立候補を認めないことを打ち出せば、これははっきりと、「広く国民に開かれた党に変わった」ということが示せるのであって、小泉ジュニアが広告塔になっているようでは、底流の国民意識を掴めない。
小泉進次郎氏は姿形が魅力的だというに留まらず、受け答えもしっかりとしていて、意外と逸材かも知れないとの評がある。それが麻薬的なのだ。確かに横須賀で、確実に議席を得ようとするならば、小泉ブランドを利用するのが一番だ。しかしそれで、広く人材を国民の中から求めることがどうして出来ようか。
河野太郎氏も、小泉進次郎氏も、自民党を担う政治家としては有望であるにしても、世襲批判は必ずついて回る。天下国家のことを考えるならば、次回の選挙は神奈川県ではない場所から立候補して、一から出直して、信を問うべきであろう。それをして彼らは力強いリーダーシップを獲得できるだろうし、そのリーダーシップがなければ自民党再生など、あり得ない。


与謝野氏が、そうしたことを自民党に求め、それが実行出来ないから離党したというならば構図は鮮明なのだが、どうもそうではない。このままでは単に年寄りの冷や水以上のものではなく、おじいさん何がしたいの?と言うしかない。