遠回りの意味

CDや本が売れなくなってきた件 - 谷山浩子のどこかこのへんに...
何よりも驚かされたのは、あの谷山浩子さんがブロガーでもあるということ。僕の母が谷山さんの楽曲が大好きで、子守唄代わりに聴いてきた思い出がある。個人的には、半ば伝説上の人という感じなので、その人がお隣の田中さんやお向かいの山田さんのように、ブログやツイッターをやっているということに、不思議な感覚を感じる。
僕が中学生の時に、親にねだって買ってもらったステレオにはまだレコードプレイヤーがついていた。レコードも何十枚か持っていて、おそらく「レコードを聴く」という行為の意味を理解している最後の世代に属している。
そう、確かに、レコードを聴くという行為はCDで音楽を聴くのとはまったく次元が違う行為だ。そうした体験に乏しい世代から見れば、この認識が単なる懐古趣味や思い出補正と見えてしまうのも仕方がないことなのだろう。
レコードではザッピングが物理的に困難であり、たいていの場合は片面が終わるまで、通しで聴かなければならない。アルバムアーティストという概念が実質的に存在可能だったのはレコードの時代までで、以後、音楽は消費財になった。
もちろん良しあしはそれぞれある。僕も、おそらく谷山さんも単純にむかしの方が良かったと思っているわけではない。ただ、その制約の中で、貴重な経験が得られたのもまた確かなのだ。
そう好きでもない曲を「聴かざるを得ない」中で、アレンジや構成の中に意外な発見をしたりする。
検索エンジンが出てきた時にもやはり同じことを感じて、例えばこれは何度か例として言ってきたことなのだけど、(まったくの趣味ではあるが)ルイ16世の母方の閨閥を調べるために、それこそ百冊も読まなければならなかったことがあって、今ではその知りたい情報を得るために検索すればものの30分もかからない。それは便利ではあるけれど、寄り道の中で蓄積されたものが得られないということでもある。
でもやっぱり今では音楽はほとんどダウンロードして iPod の中に入っているし、キンドルが日本で発売されれば、たぶん買うだろうと思う。
やはり便利さの魅力には抗い難い。ネット10年、10年前から言われていたメディアプラットフォームの激変はいよいよ本格化しつつあり、知の形をどのように変えてゆくのか。僕は基本的にはネット万歳、新時代万歳の人なのだけれども、重力に捉われているのか、そこからこぼれ落ちてゆくものが気にならないわけではない。
と言うか、ネット革命の本格化は避けられないのだから、むしろそこからこぼれてしまうものをこそ気にかけた方がいいんじゃないかと思うのだけど。