不自然な果実

同性愛が不自然だと言っているのは、生物学ではない。あなたでしょう? - みやきち日記
そもそもの前提が違っているので、その前提に乗った上でなされているみやきちさんの返答もずれているように感じる。ずれていることを批判しているのではなく、前提に乗った上で否定しなければ、そもそも前提が違っていると考えもつかない人たちには反論として届かないのだから、致し方がないのだろうなという嘆息としてこれを書く。
自然というものがもしあるとすれば、それはまさしく「在る」ということが全定義であって、徹底的にニュートラルなものである。
従って、同性愛が現に存在する以上、それを含めての自然なのである。
そうした基本を踏まえてなお、「自然か反自然か」の議論に社会的には付き合わざるを得ないのは、「自然」という概念をごく恣意的に切り取って価値判断として用いる人たちが、それこそダーウィン以前から存在し、今なお存在するからである。
その文脈で、「同性愛は反自然」だと言うのと同様に、対抗言論として「同性愛は自然である」と提示するのは、そのどちらも非科学的ではある。
ただ、対抗言論は分かった上でそうせざるを得ない社会的な要請がある。それは科学とはまた別の話だ。
そもそも生物学という区切りでは大きすぎて、主語にはなかなかなりにくい。
同性愛についは幾つかの論争ポイントがある。
1.遺伝的要因か、環境的要因か
2.可逆的であるのか、不可逆的であるのか
3.性淘汰上有意の意味があるのか、ないのか
4.血縁淘汰上有意の意味があるのか、ないのか
ホモフォビアの人たちは、同性愛者の異端性を自己責任として処理したいわけだから、同性愛が環境的要因で生じ、可逆的である(治療可能である)と見なしたいわけである。
当然、同性愛者側からは、遺伝的要因であり、不可逆的である、つまり変更がきかない個性であると提示したいわけで、その両者の対立的な思惑が、科学論争に政治的な余地を持ち込むことになる。
私自身は現時点ではどちらとも断定がつかないけれども、さまざまなタイプの同性愛者がいるだろうとは思っている。同性愛者を可逆的であると言えないように、すべての同性愛者が不可逆的であるとは言えないだろうと思っている。
ただ、常識的に考えて、わざわざ好き好んで迫害されがちなマイノリティになる人は少ないだろうから、「ほとんど」の同性愛者は遺伝的、かつ不可逆的であろうと推測している。
その前提に立った場合、明らかに一見して子孫を残しにくい特質を持ちながら、どうして一定数のわりあいで(おそらくクラスにひとりかふたり程度は)、同性愛者が存在しているのかという疑問が生じる。
それをエラーと見なすのか、何か有意の意味があるのかという疑問である。
もちろん、同性愛以外にも、子孫を残しにくい遺伝的特質はあって、そのすべてを性淘汰や血縁淘汰上、有意であるとは考えにくい。
ここでは勝手な憶測をして推論を重ねるのは止めておくが、「同性愛者が反自然」だという言説が科学的に論外だとしても、いつもいつも科学がマイノリティに都合のいい「結果」を出してくれるとは限らないのである。