ちはやふる、諸々

勧められて、「ちはやふる」という漫画を読んだ。作者は末次由紀さん。競技かるたを扱った作品で、マンガ大賞を受賞したり「このマンガがすごい!」のオンナ部門で第一位になるなど、世間的な評価は非常に高い作品だ。
最新刊の第8巻まで読んでみて、もちろん面白かった。ただ、ここからが勝負だろうなと思う。
確かSF作家の野田昌宏さんがおっしゃっておられたのだと思うが、物語のパターンは4つに分類される。
1.普通人が異世界に遭遇する。
2.普通人が通常世界で生活する。
3.異形の者が通常世界に現れる。
4.異形の者が異世界で生活する。
少女マンガにはパターン1が多い。「王家の紋章」などはその典型例だが、「ちはやふる」や「のだめカンタービレ」のような作品もそうであって、世界設定自体の魅力、吸引力によってストーリーが進行してゆく。
ちはやふる」について言えば、読者は競技かるたの世界を知らないのだから、「へえ、競技かるたってこんなんなんだ、競技かるたの愛好者ってこんな人たちなんだ」と知ること自体が、作品の面白さになっている。
その効果が薄れてきてなお、作品が第2や第4の相に移行してなお、物語の吸引力を維持できるかどうかは今後にかかっている。意地悪な言い方で申し訳ないが「8巻までなら傑作だった」ということになりかねないし、そうなる可能性はなくもない。ただこういうことは当事者たち、作者と編集者たちこそがよく分かっているはずだから、どういう手を打ってくるのかなと今後を期待したい。


末次さんについて検索して調べてみて、ああ、あの人かと気づいた。
何年か前に、少女漫画家が、「SLUM DUNK」の構図をトレースしていたことが発覚し、版元の講談社が謝罪、連載打ち切りのうえ、その漫画の作品は絶版・回収したということがあった。その少女漫画家が末次さんだった。
構図をトレースすることについて、良いか悪いかと言われればもちろん悪いけれども、大家と呼ばれるような人たちも案外やっていることだろうとは思う。トレースフリーのポージング集からトレースしている例は無数にあるだろう。法的にはノープロブレムでも、創作の意味合いからすれば同じことだ。ただ、末次さんの場合は、程度において悪質であったし、メガヒット作品である「SLUM DUNK」からトレースすればバレないはずがないという点で迂闊過ぎた。
「出来心」ではあったのかも知れないが、その結果は末次さんはキャリアを失い、講談社もおそらく何億という損失を被ったはずだ。
それでも、講談社は作家としての末次由紀さんを見放さなかった。美談めいた話をしたいのではない。出版社が作家を使い捨てにするのは当たり前であり、メガヒットを飛ばした作家であっても、需要がなくなれば切られる、それが漫画出版の世界である。
40代、50代、60代と「作家」を続けられる人はごく少数だ。
ゼロどころかマイナスの価値を持ってしまった末次由紀さんを、それでも講談社は再び使った。これがいかに「ほとんどあり得ない」ことなのか、社会通念的にも、出版界の慣行的にも、ほとんど空前絶後と言っていいだろう。
そうさせるだけの才能が末次さんの中にあり、その才能への確信が編集者の中にあったということだ。彼女を再び起用した編集者は大きな大きなリスクをとった。彼女がどれほどの感謝の念を抱いているか、想像に難しくない。
そして、末次由紀さんと講談社は「ちはやふる」という作品を通して、読者に対して答えを提示した。
マンガ大賞にしても、「このマンガがすごい!」第一位にしても、何百何千何万という漫画作品の中から、選ばれるのはただ一作である。
日本マンガ史に刻まれる作品だけがノミネートされる。
末次由紀さんのマイナスからの復活自体、マンガ的なほとんどあり得ないお話だが、時々、マンガのようなお話が生じるのがこの世界である。


末次さんのプロフィールを拝見するに、彼女と私は同世代であり同郷である。ウィキペディアに記された彼女の出身高校、彼女がデビューした年齢等々から幾つかのことを読み解くことができる。
それについては憶測の域を出ないのでいちいち書くのは止めておくが、マンガが好きでマンガを描くことが大好きだった少女が見える。プロフェッショナルのプレッシャーに叩き潰され、挫折と後悔と恥辱にのたうち回ってもなお、末次さんにはその少女だけは裏切ることが出来なかったのは分かる。
裏切ることが出来ないものが心のうちにあるならば、人は生きていけると、私はそう思った。