リベラルと差別

今日の「おまい自分が何言ってるかわかってんのか」リスト・きっこ編
この togetter は ryankigz さんが編集なさったのだろうか。
いきなり自分語りで何だが、私は割合、流され易い性格で、人の言い分もそれなりに理路が通っていたら、なるほどね、と受け入れるか、受け入れないまでもともかく保留しておく癖がある。
それで何かの折に、その理路が理路の破綻としてではなく、価値判断からものすごく叩かれているのを見て、「ええっ!?なんで?」と驚くことがある。
私がこれまで書いてきたことも、自分としては本当に理解できないことや、考えた上でなお疑問が残ることを書いてきたのであり、何かの現実的かつ属性的な利益のために言ってきたのではない、それだけは振り返ってみて言い切れると思う。


日本人をやっていると、外国人から捕鯨について見解を求められることがある。きっこさんの、この畜産をめぐる視点とそれに対する反応は、日本人でもある私が捕鯨についてエクスキュースを強いられた経験の時に感じたものに通じるものがあるように思う。
私は常々、今日の世界ではリベラリズムには差別を強化してしまう機能があると考えていて、誰であれもう少しこの点について意識的にならないといけないよなあと思っているのだけど、捕鯨児童ポルノや痴漢冤罪やフェミニズムや専業主婦やエロゲーや、私の問題意識は基本的にはすべてそこから端を発している。先日書いた西欧におけるイスラム受容の問題もそう。
別に私が「反・反捕鯨」の立場に立っていて、「反捕鯨」って差別だよね、と言いたいわけではない。エロゲーについてが特に分かりやすいかも知れないが、対象と被対象(簡単に言えばこの場合はエロゲー愛好者と女性)の双方に蔑視感情がありリベラリズムは相手の蔑視感情を是正する梃子にもなれば自分の蔑視感情を正当化する武器にもなるよね、と言うようなことを言いたいのである。


さて、きっこさんのこの件については、以下の2点について私は彼女に同意している。
1.廃棄されるのと屠殺されるのとでは、(家畜にとっては)大した違いは無い。
2.食肉業の存在を許認し、あるいは従事していて、家畜の視点に立って「廃棄されるのは可哀想だ」と言うのは、どう考えても馬鹿馬鹿しい理屈である。
以下の点については見解が異なる。
畜産業者が、家畜が廃棄処分されることに経済的な損失以上の精神的苦痛を感じることはあり得るし、偽善ではない可能性も充分にあると思う。何故ならば、通常は、畜産業者=屠殺業者ではないからである。単に業務的な「慣れ」の問題であろうと思う。
ただ、ことさら家畜をほうむることのストレスを言う、その精神的苦痛を言うのであれば、通常の業務で行われている殺生について、どのように合理化して処理しているのか聞いてみたい気はする。
私たち消費者が食肉を消費する時、既にそれは「食肉」として加工処理されている。スーパーの店頭では、マスコット的に描かれた牛が「おいしいよ!モー!」などと言っているイラストが掲示されていたりする。食肉産業自体をブラックボックス化して、それが殺生とその結果であることを意識させないようにしているのだが、もしそれが差別であるならば、屠殺業者を切り離してブラックボックス化する食品産業全体の他の部門の意識もまた差別であろう。
きっこさんは「殺生と食事という不可分の関係をブラックボックス化しない」ことに重点を置いているので、消費者=直接の屠殺者という構図を不明瞭にする「業者」の存在に対しネガティヴになるのはひとつの論理的帰結であろう。
私がそこに帰結しないのは、屠殺という行為も含めて、食品産業を徹底して産業としてのみ捉えているからであって、屠殺という行為に過重の意味を持たせるならばきっこさんのスタンスになるのは合理であろうし、徹底して産業として捉えるならば家畜を廃棄処分することに経済的損失に対する無念以上の意味合いを持たせるのは笑止である。
「家畜を生産し消費することを通して経済的な利益を得ている人が、不良品の廃棄処分という現状について、経済の論理以外の、"道徳的論理"を持ち込んだ」ことが起点なのであり、きっこさんはその論理的な矛盾を指摘しているに過ぎないと私は思う。
「そこでその道徳を持ち出すなら、あなたの言っていることとやっていることには乖離があるでしょうよ」と言っているまでのことだと思う。これに、彼女個人の信条が別途に提示されているからややこしくなっているだけだろうと思う。
従ってこれは差別の問題ではないと私は思う。