食肉業について
先の記事で私は、家畜からすれば廃棄処分されるのと、食肉用にと殺されるのとでは大きな違いはないだろうと書いたが、よくよく考えれば違いはあるかも知れない。
魚でも鶏でも牛でも同じことだが、食肉の品質を上げるためには血抜きをしなければならない。血抜きとは心臓が動いている状態で、体内の血液を抜くことである。食肉用の豚・牛は通常、この工程を経ている。失神・脳死状態にある食肉家畜が、血抜き作業の際、何を感じているのかは分からないが、普通に考えればなるべく御免被りたい体験であるだろう。
廃棄処分は食肉処理されるわけではないので、もちろんこの工程は無い。だからどちらかと言うと、牛豚の立場になれば、食肉処理されるよりは廃棄処分されるほうが望ましいだろう。
だから、牛馬の立場に立って廃棄処分されて可哀想だと畜産業者が訴えるのは、阿呆を言うな、と言うしかないのである。
さて、こういう工程を含む産業をどう捉えるかである。
こういう産業を是認し、自らも消費者として利益を享受しながら、産業の従事者をことさら非難するのが差別なのであって、そうした産業を是認しない立場から産業そのものと産業従事者を批判するのは差別に当たらないだろうと私は思う。
私は食肉産業を許容もし、肉食もするから、個人的には批判はしないのだが、当然、産業そのものに不可分に伴う「殺生」を許容しない考えもあり得る。
その許容範囲の度合いは個人によっても異なるし、時代によっても違う。
例えば、奴隷貿易が許容されていた時代において、この許容範囲の設定の違いから、奴隷商人やその産業を倫理的に非難した人たちはいたし、そうした人たちが徐々に多数派を形成してきたから、西欧やアメリカでは自ら奴隷貿易を禁止するに至ったのである。
果たしてそれを差別と言いえるだろうか。
基本的に残酷なことは忌避するという社会的な合意があり、明確な残酷な行為を伴わざるを得ない産業がありその存在を是認しない時に、その産業を是認することや、その産業から利益を引き出す行為を批判することは差別にはあたらない。
これは許容範囲の設定をめぐる問題提起なのである。
かつて人を売買することが当たり前だった時代があった。
未来において動物を売買することを野蛮と見なす時代はあり得る。
それはパラダイムシフトではなく、「残酷なことを是としない」、現代の基本的なパラダイムを徹底した延長線上にある。
例えば捕鯨について言えば、絶滅危惧種ではない種の捕鯨について、家畜のと殺を是としていて、捕鯨を野蛮視するのは差別、文化帝国主義であろうと考えている。しかし、生存のために不可欠ではない食肉産業自体を否定するのは差別ではないと考えている。
リベラリズムが差別を強化してしまうのは、論理的一貫性が欠け、有意の前提条件の取捨選択において著しい恣意性が認められる場合であって、リベラリズムそのものが唾棄されるわけでは決してない。