ガラパゴス化は不可能

英語社内公用語化論をめぐる諸々の意見を読んでいると、パーソナル・コンピューターのオフィスへの導入期のあれこれを思い出した。
「コンピューター使用を義務づけたならばコンピューターは出来るけれども仕事が出来ない人間が社内を闊歩するようになる」
今となっては空疎というしかない言い分であるが、導入期にはそのような言い分は珍しくなかった。何年か前に山陰の自治体で何度も使用を促されたにも関わらず「苦手」を理由としてコンピューターを使用しなかった高齢の職員が懲戒解雇されたという出来事があったと記憶している。その職員がそういう態度を取っていたのはおそらく‘それまで’そういう態度が許されてきた職場文化があって、より高齢の職員たちはぎりぎり逃げ切れたけれど、その人は単に先輩と同じようなことをしていたのだけども逃げ切れなかったということだろう。
その人に仮に他の部分で突出した処理能力があったのだとしても、コンピューターを使用しないことは今日では処理能力上、致命的なハンディである。
「コンピューターを使用できないが、有能な人間」
と言うものは、少なくとも普通の営利企業では存在する余地は無い。コンピューターを使用できることは、仕事をする上で充分条件ではないが、必要条件である。別に事務職だけではない。ありとあらゆる職種で導入されている。
事務職の話が確かに一番分かりやすいのではあるが。
単純作業で、1から10万までの項目があって、それをすべて合算するとなると、どれほど熟練した事務職ワーカーであっても、1日がかりの仕事になるだろう。エクセルならば、1分もかからない。
この爆発的なメリットの前には、少々のアドバンテージや経験はまったく無意味なのだ。そうであるだけに、このメリットを導入する余地を先に見出した企業が基本的には勝つ。
英語の社内公用語化もそのような話だと思う。グローバル化が目的ではない。生き残り、成長することが目的である。
コンピューターを導入した企業が別にコンピューターテクノロジーを愛しているというわけではないように。