科博雑感

先月、上野の科博に行ってきた。科博に行くのはかれこれ10年ぶりくらいで、主要な展示物には変更はないけれどもその解説や新たな知見の追加が10年という時の流れを物語っていた。
西美に行くか、科博に行くか、決めもせずに家を出たが、たまたま航空宇宙史の展示を科博でやっていて、連れがそれを見たいと言ったのでD-51の現物展示の隣を通って科博に入館した。
さすがにいざ見ようとなれば一日がかりになる規模の展示量である。また、科博であればこそ当たり前なのだが、やたらと子供が多くて、普段、子供に接することがほとんどない私にとっては、「子供にあてられる」ことにもなり、休み休みのろのろと展示を見て回った。慣れの問題なのかも知れないが、子供と接することがほとんどない静かな生活を送っていると、たまに子供の集団に囲まれると、生命エネルギーを吸い取られるような疲労を感じる。なんだかんだ言っても、子育てをしている人たちや、学校の先生方に頭が下がる思いを改めて抱いた(お子さん方は自分が子供のころと比べればずいぶん行儀がよかったのだけども、あの子供特有の奇声に何度か囲まれるたびに、西美に行けばよかったと思った)。
今回、ずいぶん、ボランティアのご老人方が増えていらっしゃるように思った。元理科の先生方なのだろうか、何人かとお話しさせていただいたが、科学的なご識見も立派な方々ばかりだった。ただそうしたスタッフをボランティアにばかり頼る政府の姿勢はいかがなものかとも思った。
限られた予算の中で、スタッフの方々とボランティアの方々の識見と熱意によって、しっかりしていた展示がされていたが、本当ならば、研究者の就職先を確保する意味でも、常勤のスタッフによって解説や学習支援もなされる方が望ましいと思う。こういう問題はたぶん、団塊の世代年金生活に入って以後、さらに本格化するはずで、本来、給与が支払われてしかるべき仕事までボランティアに委ねられることで、若い人の職がなくなってしまうのではないか。
今回の特別展示は航空宇宙史ということで例の仕分作業の時にも問題になっていたYS-11関連のものも展示されていたが、羽田空港に同機を現物出来るよう、募金がつのられていて、見せ金が結構入っていた。私もYS-11を現物保存、現物展示することは有意義だとは思ったが、少し考えて、やはり募金はしなかった。そういうことは政府がするべきことだからであり、そのために私たちは税金を支払っているからである。
科博も対入場者として私たちに対峙した時には政府側の一員なのであって、財政的なツケを入場者の善意に頼るというのは筋が通らないことのように感じた。科博がやるべきなのは政府民主党を説得することであって、政府の判断が下ったのならば、そうして独自に寄付を不特定多数に募るというのも、政府の判断に公務員が異議を唱えることではないかと思った。
科学を愛する者としての思いは十分にわかるけれども、科博のスタッフは入場者、納税者に対して政府の一員であるという意識を持つ必要もあるのではないかとも感じた。


人類進化の展示を見ている時、説明ボードの最後の部分に、人種について記してあった。
人種を科学的に取り扱うのはいろいろ難しい面が多々あって、単に生物学的な議論にとどまらず社会的に難しい要因が多々あるのは言うまでもない。ただ、昨今の人種虚構説については、断定しきってしまうのはいかがなものかという漠とした気持ちが私にはあって、少なくともその展示を取り扱った科博のスタッフにも同じ思いがあるのだろうとその説明文を読んで感じた。
「違うけれども平等」
という言葉の中には、「違う」という可能性を否定しきれない思いがある。社会的な善悪論に呑み込まれることを抵抗しようとする科学者の良心を私はそこに見出したが、社会的な善悪論に呑み込まれる可能性自体は否定できない。その説明は日本語のみで記されていたが、英語併記されていたならば、まさしく political matter として、日本の「政治・社会」の問題という文脈で処理されてしまう危険をはらんでいる。
純粋に科学的な展示がそうした文脈で処理されてしまう危険があるということ自体が本当は問題なのだが、この問題は幾重にもねじ曲がっているので、「そうした展示を中立的な科学的な展示物として処理してしまう日本社会の問題」として国際的に処理されてしまう危険が、残念ながら現状ではあると言わざるを得ない。
思いは思いとして尊重するし、私個人はその思いはまったくもって正当だとは思うのだが、政治的なマターとして眺めた場合、我が国の国際的な影響力の弱さからかんがみて、もっと「穏当な」表現に変更することを科博には望みたい。科博そのものは戦いの場ではないのだから。