死は祝福

今月号(新年号)の文藝春秋を読んでいて、もうこの雑誌も御仕舞だなと思った。新年に向けた特集記事が「弔辞」ってのはどうなのよっていう。文藝春秋はこれに限らず、このところずっとお年寄り向けの特集記事ばかりやっていて、出版不況の中、固定客のご老人向けに商売をやっていくっていうのも出版戦略上ありとは思うけれども、もう未来に向けて当事者として提言していく気はさらさらなくて、せいぜいがこの先15年もすればくたばるような人たちの、「俺たちって偉いよね」的な、老人マスターベーションを満足させる内容でしかなく、ドッグイヤーで移り変わるこの時代に、無益だけならばまだしも老人の提言など有害でしかない。
これもまた、というよりもこれこそが少子高齢化社会の最大の弊害かも知れないと思った。人間はそうそう簡単には変われないわけで、特に成功体験であればこそそこからなかなか離れることができない。若い者に訓示をたれるような偉いさんのご老人であればなおさら、時代の方に自分を合わせてゆくということができない。
老人の言うことを聞いていたら必ず失敗する。彼らは今と言う時代をわかっていないのだから、何もわからない素人がばくちを打つようなもので、老人は死ぬことこそが若い人たちに対する最大の祝福である。その祝福が簡単には得られないようになることが少子高齢化社会ということであり、死は指導者層を強制的にリセットしてゆくことで、変化に対する耐性を国家にもたらしてきた。そのリセット機能が極端に弱体化してしまうことこそが、少子高齢化社会の最大の弊害である。
たとえば今月の特集記事に「英語よりも論語を」という記事があった。インターネットの世界的な普及を通して、あらゆるものの環境が劇的に変化しているということ、国民国家そのものが危機に瀕しているということが論者たちには理解できていない。フィリピンは英語を話すけれど失敗国家じゃないかと嘲笑する見方の中には、その失敗国家のフィリピン人「ごとき」がたかが英語を話す程度のことで、レアジョブなどで日本人の優秀な若者から簡単にお金を巻き上げられる現実がふまえられていない。
なぜ景気がそれなりに回復しても日本だけではなく世界中で失業率がそれに伴って回復しないのか、新卒の就職が経済規模に比較して先進国ではどこでも厳しくなっているのか、どうして企業は国籍を重視しなくなっているのか、そういうことがまったくわかっていない。
国家と国民経済と国民が不可分であった松下幸之助の時代の世界観から一歩も抜け出ていないのであり、彼らは老人であるから自分たちが何も分かっていないということが分からないし、理解もできない。
そういう人たちが若い人たちに与えられる唯一の祝福はその場所からいなくなることだけである。