石原都政下でのマンガ・アニメ規制が不適当である理由

私にも感情があるから、好き嫌いはむろんある。むしろ他人よりも濃厚にあるかも知れない。凌辱系のマンガやアニメ、ゲームは嫌いであるし、そういうのを目にするのも嫌いだ。
もう十何年も前、パソコンソフトを買おうとして、たまたま隣に陳列してあった少女をレイプするゲームを見た時の不快感を記憶している。こんなものが陳列されていていいのかと思ったものだ。その後、一般の書店でもどうかすると、エロマンガやらBLやらが平積みになっていたりして、この国は本当におかしいんじゃないかと思ったものだ。
だから感情論で言えば、そうしたものの販売規制は賛成すべきだろう。10年前、20年前のもう少し保守的な日常を知っている人間ならばほとんどの人は、現状を知れば知るほど規制に本能的に賛成するはずである。
余りにも野放図過ぎないかと。
ただ、私はその感情を共有するにしても、私個人の感情論に過ぎないのはわかっている。その感情を公共に敷衍してゆくうえでは、どうしても基本原理からの合理化、統計による合理化が必要である。
そのプロセスを余りにも軽視し、合理化という行動の縛りを欠いていることが、石原都政の今回の行動が暴政と評されるべきまず第一の理由だ。
「四の五の言う連中はキチガイ。規制は当たり前」
相手をキチガイ呼ばわりし、合理化プロセスも説明せずに「当たり前」で済ませられる、他人の権利をかような薄弱な理由で制限できると思うこと自体が、基本的人権を尊重すべき民主主義社会の政治家としてふさわしくない言動である。
石原慎太郎は、ずっと同じことをやって来た。以前からこの人の幼児的全能感、主流派的絶対的確信は何に由来するのだろうと疑問に思ってきた。
この人が言ってきたのは、「俺が気に入らないことはみんなが気に入らないこと。俺が気に入らないものは無くしてしまえ(あるいは隠してしまえ)。なんで気に入らないかって?そんなの当たり前でしょう、まともな人間なら気に入らないに決まってるよ」ということだけだ。
なぜ「彼ごとき」の人が自分の好みを社会に敷衍させてまで盲目的に確信できるのか、どうやってその確信を獲得したのか、非常に疑問である。財閥に生まれたわけでもなく、そうそう華麗な閨閥があるわけでもなく、東大を出たわけでもなく、知識人として尊敬されているわけでもなく、ものすごく美男というわけでもなく、文学者として黙殺されているに等しく、中央政界ではまともに相手にされず、いったいどこにかような盲目的主流感を抱く根拠があるのか、理解できない。
しかし結果的に彼はそうした全能感、主流意識を持ってしまっているわけで、そのターゲットが「養豚業者」であったり、「同性愛者」であったり、「外国人」であったり、「中高齢女性」であったり、「凌辱系マンガ・アニメ」であったりと変わってきただけの話である。
「好み」のみを理由にすればそういうことになってしまう。「好み」のみを理由にすれば、少数派を虐殺したり、優性思想を社会的に導入したり、ハンセン病患者を「まともな人たち」の目に触れないよう隔離するのが「そんなの当たり前じゃん」になってしまう。
マンガ・アニメの話から飛躍し過ぎているように感じる人もいるかも知れないが、私としてはどうしてこれが飛躍なのかがわからない。石原慎太郎とその政治には、「好み」から敷衍された方向性だけがあり、基本的人権から敷衍され合理化された統計的な理由などないからである。
だから仮に凌辱系のマンガ・アニメの販売規制が基本的人権を尊重するうえで合理なのだとしても、石原慎太郎の主導では容認できないのである。目的と意図に齟齬があるからだ。


そもそも今回の規制は青少年の健全な育成を目的としている。「健全な」という定義がまったくなされていないことに笑ってしまったが、少なくとも統計的に処理し得る犯罪率等で見る限り、凌辱系マンガ・アニメの氾濫との間に因果関係はまったく見られない。むしろ犯罪率そのものは低下傾向にあることから、「凌辱系マンガ・アニメが青少年の健全化に寄与している」とさえ、言えなくもない。私はそこまでは踏み込まないが。私に言えるのは因果関係はないということだけである。ただ、ライヒの考えなどを援用すればまるっきり無理筋の見解ではないかも知れない。
青少年の健全な育成目的としては統計的な支持がない以上、「手段と目的」が乖離しているというしかなく、規制は個々人の自由の侵害でしかない。
せめて、迷惑防止条例の文脈で規制すべきであって、それでさえただ多数にとって迷惑だから規制ではなく、表現の自由と販売の自由を原則的に認めたうえで、なおかつぎりぎりの折衝として、合意としての規制を目指すべきだろう。その前提条件が欠いているために、今回の規制に合理性はみじんもないのである。