大塔宮護良親王

年末に空いた時間を利用して、何年かぶりに鎌倉宮(大塔宮)に参詣した。以前参詣した時に抱いた疑問があったからだ。
大塔宮護良親王、私は「おおとうのみやもりよししんのう」と呼んでいるが、宮の展示物では「おおとうのみやもりながしんのう」となっていた。「おおとうのみや」と「もりながしんのう」の組み合わせは珍しいと思う。鎌倉在住の方に拠れば、地元ではもっぱら「だいとうのみや」と呼ばれることが多いということだが、史学的研究がなされる前は「だいとうのみや・もりながしんのう」の呼称が一般的だったことを踏まえれば、「だいとうのみや」の呼称の方が鎌倉では歴史的読みとして定着しているのは自然なことである。
そういう意味では鎌倉宮での展示でも「だいとうのみやもりながしんのう」ならば何も意外なことではないが、折衷された形になっているのが収まりが悪い感じになっていた。今日、新たに日本史を学ぶ者ならば、まず「おおとうのみやもりよししんのう」以外の呼称では呼ばないだろう。漢字の読みは固有名詞の重要な部分なのだから、宮を敬するならば史学的研究を踏まえた方が良いと思う。
鎌倉宮の意外性のひとつは、創建が明治になってからのこと、幕末明治以来の水戸史観的な南朝正統論を踏まえた史観の上に創建されているということだ。神道の神は基本的に祟り神であるが、悲惨な死に方と言えば、大塔宮は親王たちの中でも随一である。宮に比べれば早良親王井上内親王の死に方など可愛らしいものだろう。それが明治になるまで放置されていたということに、神道としての符丁の合わなさを感じる。
しかし考えてみれば、祟りとは祟りを恐れる当事者がいればこそ祟りとして具現化するのであって、親王を害した直接の指令者は足利直義、彼も滅びている。祟りを恐れて祭る当事者が存在しなかったということであり、仮に大塔宮が祟り神だとしても、「成功した祟り神」であるので、祭られる必然性を喪失したということなのかも知れない。
明治に入ってからの鎌倉宮の創建は、文脈的には菊池一族の復権南朝功臣子孫の華族への抜擢と同じ文脈の上にある。大日本史的な天皇中心史観がそこにはあり、その皇国史観が太平洋戦争へと至る過程を下支えしたことを踏まえれば、鎌倉宮の存在も、国家神道的な文脈から見れば存在自体が汚点だとも言える。
ただしそれも為政者たちの恣意的な解釈になされたものであり、そもそも大塔宮は南朝によって切り離されて見捨てられた人なので(だから宮の殺害指示者である足利直義南朝と手を結んでいる)、南朝正統史観の文脈で大塔宮の生涯を処理しようというのが無理がある。大塔宮は足利直義に祟るべき理由がある一方で、後醍醐天皇阿野廉子長慶天皇南朝に対しても遺恨があるに違いないのだから。しかしここでももはや南朝は無く、大塔宮は成功した祟り神である。
そうした縁起を離れて今では鎌倉の人たちの神社として、鶴岡八幡に次ぐ親しみを受けている神社であり、そうやって人々の日常の中に溶け込むことこそが、宮にとっては何よりの供養であるかも知れない。
ご多分に漏れず、鎌倉宮でも神前結婚が行われているようだが、結婚をつかさどるうえでこれほど縁起が悪い祭神もないだろうと私などは思ってしまうのだが、考えてみれば私の親戚にも天満宮で神前結婚を挙げた者が多い。菅公もまた大祟り神であるので、結婚という慶事に相応しいかと言われればそうでもないように思うので、このあたりは単に慣れの問題か。しかしながら菅公は別に殺害されたわけではない。左遷されて無念だという思いはあったに違いないが、程度から言えば監禁されたうえ殺害された大塔宮とは比較にならない。鎌倉宮には、実際にそうだったかどうかはともかく、「観光資源」として大塔宮を監禁したという土牢跡(と称されているもの)があり、大塔宮の首を据えたとされている場所跡もあり、遺物から言えば禍々しいことこのうえないが、それをどう一般に対するご利益という形に変換するのか、特にアクロバティックな解釈を強いられている神社だと言えるだろう。
菅公=学問の神という「ご利益化」は菅公が実際に学問に長けていたことを踏まえればそうそう無理ではないが、大塔宮は武術や勝負事を「表芸」としたとしても、それで失敗した人なので、失敗した人に祈ってどうなるという気もする。
世俗の人たちに支えられ、その生活の中に溶け込むためには、生々しい創建の縁起が忘却され、世俗化してゆくことが不可欠だが、大塔宮は実在の人物で、その生涯はよく知られていて、しかも「負けた人」なので、「ご利益化」するのはかなり難しいように思う。思えば平将門も首をはねられた訳だが、彼の場合は一時的にも関東の独立盟主であったわけで、関東の土地神化することが可能であったが、大塔宮の場合は特に関東に縁があるというわけでもない。彼の弟の懐良親王ならば九州で土地神化することは可能だろうが、同じ扱いを関東で大塔宮に対してするのは難しい。
そうはいっても現代における神社である以上、何らかのご利益、のようなものは必要なわけで、そのあたりの難しさが鎌倉宮の珍しい鳥居にこめられているように思う。
白塗りの鳥居で笠木が赤い。一見すれば紅白のおめでたい鳥居なのだが、同じ鳥居を他では見たことがない。たぶん全国でも鎌倉宮だけだと思う。白は純白無垢、赤は赤心を意味する。つまり世俗の地位や欲望、損得勘定を度外視して、ひたすらの誠を象徴している鳥居であり、ある種の逆転の発想がそこにあるように思う。大塔宮が歴史的には敗残者であったということ、しかしかなり活発なアジテイターであったということ、思いが叶うかどうかではなく、その思いの強さ、思いの純粋さを抽出し、それをご利益とする、というかご利益を求めて参詣すること自体を否定する発想がそこにある。
大塔宮の生き方をかんがみて、自らの思いの強さと汚れのなさを自らに問う、それがご利益といえばご利益だろう。
話によれば、もともとは鎌倉宮の鳥居も創建時はただの白木であったらしいので、国家神道を離れて自立する時に、鎌倉宮が新たに自己規定をした結果、あの鳥居があるのではないかと推測している。
私はそこにイエスとの類似性を見る。ローマ教皇ボニファティウス8世は「自分も救えなかったイエスがどうして他人を救えようか」と喝破したが、理屈から言えばそれは至極もっともである。しかしその矛盾の中に純粋さ、世俗を超越する何かしら、信仰が生じるのであって、その矛盾こそがキリスト教世界宗教化させた要諦である。それと同種の、飛躍する何がしらが大塔宮にはあるように思う。