ナポレオン3世の蹉跌

第二帝政外交政策について考えていて、現代から見ればいろいろとちぐはぐな面があるが、当時において、各国の状況や国力をどれだけ正確に読み取ることができたのかを考えれば、避けがたい蹉跌であったかも知れない可能性を考えたが、やはりそうではなかっただろうと思い直した。
今から考えれば当時のフランスにとっての最重要事案は、ドイツ統一の阻止にあったと言えるだろう。そのためには、とそこから敷衍して考えれば、体質的に帝国性を持つがゆえに統一ドイツとはおのずと相容れないオーストリアを支援する、少なくともその弱体化を促さないということが重要になる。
これはつまり18世紀の外交革命の構造の継続であって、ウィーン会議の方針である正統主義がその時点における大国の権益の固定化であったため、フランスは敗者であったにも関わらず「大革命以前の秩序において大国であったため」、非常に大きな構造的な利益を得ていたということでもある。
つまり平和とは現状維持であるならば、フランスは持てる者として、「平和主義」を唱えていればそれがそのまま自国の国益の基本線に沿うという幸運な位置に立っていたのであって、フランスは基本的には動く必要はなかった。
サルジニア王国のコンテ・ディ・カヴールは、「ローマへの道はパリを経由する」とイタリア統一のためにはフランスの支援が絶対不可欠であると見ていたが、それはイタリア人の都合であって、トリノを支援することがどうしてフランスの利益になるのか、その構造的な問題を皇帝は考えるべきであった。
皇帝をイタリアに振り向かせるために女を利用するなど、カヴールは相当な邪道を行っている。これはカヴールが性格的にリアリストではなかったことを示している。つまりフランスの致命的な国益という正道からの説得ではなく、小手先の策で皇帝を動かそうとしたということであり、その邪道性から生来的なリアリストならば考慮した時点で自動的に放棄するような考えだからだ。
そのような小手先で皇帝が動くとカヴールが考えたのは、彼がナポレオン3世の知性を見下していたということであり、そうした小手先が通用すると思っていたということは、この外交家が実際には過大評価されているに過ぎない冒険主義者であったということを示している。
ところが皇帝は動いた。それはカヴールの策に弄されてのことではないが、フランスにとって致命的な利益が欠けているにもかかわらずナポレオン3世がイタリア統一の支援へと大きく舵をきったのは結果的な事実であった。ナポレオン3世の中にそのような非合理性があるとカヴールが見抜いていたならば、ある意味、慧眼と評され得なくもないが、冒険主義であるには違いなく、冒険による成功は時として合理による失敗よりも始末に負えない。
この結果的な冒険主義の成功が、イタリア外交のその後を決定づけたと言えなくもない。私はそういう冒険主義を外交とは評さぬし、そうした人物を外交家とも呼ばない。
もっとも、イタリアとしては当時の状況を脱するには、カミカゼめいた何がしらの外交的奇跡が必要だったのだから、「持たぬ者」としてはギャンブルは必ずしもそこまで不合理ではない。
問題なのはフランス側であろう。
イタリア統一を後押しすることが、フランスにとってどういう外交的な利益があるのか、ナポレオン3世はその観点から考慮したとは考えにくい。もっと直観的な、情緒的な、あるいは外交の原則から外れてもっと思想的な産物からイタリア政策を構築したとしか考えられない。
なぜならば、単純に言って、隣国は統一して強化されるよりも分裂して弱体化されている方が望ましいからである。イタリア統一がフランスの利益になるのだとしたら、それなりの理由がなければならない。考えられる理由としては、分裂状態自体が周辺諸国の治安を脅かしているか、隣国のさらに先に重大な脅威となるような強国がある場合だろう。イタリアの場合は、第一の理由はなかったから、第二の理由を考慮した可能性はある。
つまり皇帝ナポレオン3世オーストリアの脅威、野心を過大に見積もって、その弱体化を促すことがすなわちフランスの国益だと考えた可能性である。
ただしそれもどうかと思う。
当時のオーストリアは国自体がビーダーマイヤー的になっていて、過剰な拡張主義は見られない。オーストリアウィーン体制の表面上の「勝ち組」国家であって、現状維持派の代表として、イタリアでもドイツでも「倒すべき敵」とみなされている「障害」であった。その体内にイタリア、あるいはドイツという爆弾を抱えさせておく方が、オーストリアの身動きを縛ることになるのであり、イタリア人やドイツ人の敵意をオーストリアに集中させておくという意味で、当時のオーストリアによるイタリア支配、オーストリア主導による大ドイツ主義はフランスにとってはまことに理想的な状況だった。
イタリアとドイツの統一を阻止し、なおかつその悪役はオーストリアが引き受け、オーストリア自体も外交的フリーハンドを抑制され、フランスはオーストリア、イタリア、ドイツの三者を手を汚さずに抑制できるという、タレイランがもたらした正統主義の外交秩序は、敗戦国フランスに極端に有利だった。
このフランスの優位を、ナポレオン3世はイタリア統一を支援したことによって自ら崩してしまったのである。フランスは第一帝政以後、復活王政、七月王政第二共和政、そして第二帝政と足場が定まらない内紛を経験していたが、いわばフランスが内紛にうつつをぬかせていたのは、外交的な幸運があったからである。それを守ったのはフランツ2世であり、メッテルニヒであったが、フランツ・ヨーゼフには前代のような力量はなかった。ただただその美しい皇妃によって記憶されるのみである。
フランスとオーストリアは現状維持派として共通の利益を持っていたにも関わらず、その最大の利益を皇帝は見失ったというしかない。
気の毒なのは、利害のわからぬ外交的パートナーを持ったオーストリアだが、皇帝を説得するだけのパイプを構築できていなかったのだから、責められるべき点はある。
イタリア統一は、ハプスブルク帝国の落日の引き金となり、小ドイツ主義の活発化を招くことになった。ドイツ統一は皇帝ナポレオン3世自身がプロイセンの牙に倒されることで可能になったが、その引き金を引いたのは彼自身であったことをどれだけ理解できていただろうか。