愛されなくてもいいのだよ

江戸の仇を長崎で、と言うが、類似した事例は一般人の議論ではしばしばある。これだから日本人は議論下手だとは言うまい。欧米人の我田引水、屁理屈ぶりからすれば日本人など可愛いものだ。欧米をことさら理想視するのは欧米人と議論をしたことがない者だけだろう。ごくプロフェッショナルな限られた資質を持つ人たち以外にとっては議論は権力闘争である。そうした人たちとは議論をするだけ無駄であって、ただ自分の意見を相手に関わらずに情報として提示すればよい。関係を持つにあたらない人たちと人間関係を構築する必要はない。
左翼であれ右翼であれ、議論から離れて(と言うより議論で負けて)、相手を攻撃する根拠になりやすいのが広い意味でのセックスアピールである。私たちもしょせんは性淘汰からは逃れられない動物に過ぎないということであるが、議論は人間が行うものである。ホモ・サピエンスのものではない。
女性に対しては容姿が、男性に対しては社会的ステイタスが攻撃されやすいのもセックスアピールと関係している。
インターネットができてから、私は諸々の事柄について世界の津々浦々の人たちと意見交換や議論をしてきたが、日本人であれアメリカ人であれ、ヨーロッパ人であれトルコ人であれ、議論を離れての攻撃の文句はごく似通っている。
「かわいそうな人ですね」
「日常生活で不満がたまっているのでしょう(仕事がうまくいってないの?)」
「女に(男に)もてないだろう」
「貧乏人がしゃらくさい」
「人生って不平等なものよ(だからあなたは理不尽を受け入れなさい。私は自分の不利益については猛抗議するけどね)」
たぶんこれに類することを言われたことがない人はそうはいないのではないか。これらはすべて広い意味でセックスアピールに由来している。
そしてこれに類することを言う人に、典型はない。ありとあらゆる人たちが、右翼も左翼も、リベラルも保守も、帝国主義者第三世界の人たちも、白人も黒人も、男も女も、そういうことを言う人は言う。
http://twitter.com/kirakunine/status/16049084875939840
こちらの tweet で渡部幸子と言う人が田母神氏の講演の発言として、

夫婦別姓を唱える人は、男性に愛されたことのない人では?(田母神さん、講演ナウ)

と言う言葉を紹介している。実際に田母神氏がそう言ったかどうかは定かではないからここでは田母神氏批判はしないが、この発言自体の論理欠如は指摘できる。しかしこうした発言は本能的な、というか人間の動物的な部分にアピールするために、「効果」があり、「効果」があるからこそ多用されいっこうに減らない。
論者としては以後、信用を失うほどの無論理ぶりなのだが、議論が権力闘争ならば有効な武器ではあろう。しかしそもそも政治や社会に関する政策を、本能的かつ動物的な肉感レベルに貶めている時点で「国を愛する」ことからは程遠いのだが、それがいかに程遠いのか言って解る人ならばそもそもこういう発言を「議論」としては行わない。
夫婦別姓を唱える人で、愛情に恵まれて私生活が充実している人などいくらでもいるが、そういう人たちであればそれこそ「いいえ、私は愛されております」と言いたくなるだろう。
しかしそれは夫婦別姓あるいは夫婦同姓のような社会政策において誰かに愛されている/愛されていないという個人的な状況が(もっといえば個人的なセックスアピールが)、意味を持つという、その発言者の持っている文脈を強化することになってしまうのだ。
きっちりと言うべきである。
個人の愛情生活は社会政策には何の関係もないことを。ある意見、論理の妥当性と男や女にもてる、愛される、あるいは私生活が充実しているということには何の関係もないということを。
「愛されていないからと言ってそれがなんなのですか」
私は意見を言う時は、見下される者として、学歴も財産も無い者として、愛情にも恵まれていない者として、実際にはどうであれ、裸の意見として自分の意見を言いたい。それだけの強さを自分にも相手にも求めたい。