放浪息子、アニメ化

志村貴子氏の「放浪息子」がノイタミナ枠でアニメ化されるそうで、公式サイトを見ると、中学生編を中心にやるみたいだ。小学生編までは可愛らしい話だったのに、中学に入ればジェンダーとセックスの問題に直面せざるを得ないわけで、どうしても重くなる。その重さを真正面から受け止めようとしているのかどうか。
僕はこういうフィクションには啓蒙としての意味合いも(結果的には)あると思っていて、「天の下に新しきものなし」というか、「我も人なり、彼も人なり」ということを知るのはとても大切なことだと思っている。結局、誰であれ人間であるには違いない。
「」付で分類して、エイリアン登録させて、それで頭の中から追い出すのではなく、自分の友達がそうだったら、自分の兄弟がそうだったら、自分の子がそうだったら、自分がそうだったらと考えてゆけば、気づくことはあるはずだし、それがつまりは人間やこの世界を理解するということにつながる。
性的マイノリティに対する蔑視発言をする知事や、ジェンダーフリー教育を頭から否定する知事がいる中で、教育の現場やそれを支える機構において、子供たちひとりひとりを見て、その苦しさに寄り添おうとしている人たちがいる。本当にね、某知事たちが文学者や俳優と言うならば、もう少し想像力を持とうよ。
放浪息子」で描かれている子供たちをどのように規定するべきなのかはまだわからないが、おそらく性同一性障害の子供たちであって、いまだに公立学校の制服が「男女」に分かれていること自体、憲法的な問題だと私は思う。それこそジェンダーフリーな制服にすれば少なくとも制服の問題は済む話であって、なぜたったそれだけのことが速やかにできないのか理解に苦しむ。
問題意識がないところに問題はない典型例かも知れないが、某知事たちは「意見」を言う以前に、具体的な問題に対してどう対処するのか、対策を言うべきだ。某知事たちの好みなどどうでもいい。行政官である役目をまずまっとうしてくれと思う。
放浪息子」がどういう意図で、どういう文脈でアニメ化されるのかは知らない。まさかいわゆる「男の娘」的な好奇一辺倒ではあるまいが、原作はきちんと人間を描けている作品なので、人間の、それも年端もいかない小さな子供たちが置かれている状況、苦しみがアニメでも描けるはずだと思う。