経世済民

私は自由貿易をめぐる議論では、総論としては内田樹先生の考えに「基本的には」同意だが、各論ではもちろんうなづけないことは多いわけである。
内田先生のお考えの根本は、理論的に経済を見ない、歴史的に経済を見るということであって、自由貿易であれ保護主義であれ、要は国民が豊かになるための手段に過ぎないと認識するということである。状況状況に応じて、程度をコントロールしてゆけばよいのであって、肝心なのは理論の奴隷にならないことである。
自由貿易が全体として世界を富ませるのは傾向的な事実であるが、個々の国家や個々の産業にとっては、比較生産費説が絶対的にプラスに働いたとは言えない、むしろその逆であったこともあるのは、高校レベルはともかく、学部レベルとしては経済史上の常識であろう。また、生産性が高い産業においても、その育成期には関税であれ非関税であれ、何らかの保護主義的な環境が用意されていて初めて産業として発達していったのも歴史的に見れば傾向的な定理と言っていいだろう。
しかし生産性が低い産業において保護主義は、生産力の強化にはつながらず、少なくとも産業育成という意味では、成熟産業や衰退産業を保護するのは無意味であるばかりか逆効果であることも傾向的な定理であろう。つまり、自由貿易それ自体に絶対的な価値を置くのではなく、国民国家を基盤に据えて、その競争力の強化に価値を見出すのだとしても、何が最善手かは状況次第だということだ。
内田先生の論にラディカルな面があるとすれば、それは理論主義者と同様に、状況次第で最善手が変化すると言うことを希釈したうえで、雇用絶対主義的な側面があることだ。
私は先生の論を読んでいて、スカーギルとその言葉を思い出した。スカーギルは70年代から80年代初頭にかけての英国炭鉱夫組合の指導者で、大規模なストライキをかなり暴力的に指導し、サッチャー政権以前、英国経済を麻痺させ、エネルギー転換を阻害し、英国の競争力のおびただしい弱体化をもたらした人である。スト破りに対抗するため、殺人を含んだ数々の暴力的な事件を引き起こし、リビアカダフィ大佐から資金援助を受けていたことが明らかになったため、サッチャー政権の断固とした対決姿勢もあって失脚した人物である。
カーギルは炭鉱夫の利益のみに固執していたから、英国の競争力には基本的には無関心であったが、たとえ石炭にエネルギー源としての競争力がないのだとしても、石炭産業が雇用を維持している限り、そのこと自体に存在価値があると主張した。
内田先生の論を徹底するならば、スカーギルの主張を正当化するよりなく、石炭と石油の圧倒的な競争力の差、エネルギーがありとあらゆる産業や民生に広範な影響を与えることを踏まえれば、国民経済のとうてい無視しがたい競争力の劇的な低下を招くと言わざるを得ず、そうした衰退産業の、雇用維持を名目とした保護主義は、致命的な悪影響をもたらしかねないことは指摘されておかなければならないだろう。
外国の、しかも過去の事例はともかくとして、本邦の当面の課題である農業保護についても、私は理論的な自由貿易を支持はしないが、理論的な保護主義も支持しないのである。諸々の要素を勘案して、程度として妥当な結論を導き出すしかないのであって、農業がまったく国際競争から無縁でいられるはずもないのである。
もちろん諸条件が国によって違うので一概には他国がどうだからとは言えないにしても、少なくとも基本的な所与の状況がフランスよりは悪い日本の農業にあって、フランスよりも大規模化や付加価値の高い産品の生産が進んでいないようでは産業としてはお話にならないわけである。オーストラリアやアメリカの農業とまともにぶつかるのが、例えばテレビの組立生産において中国やマレーシアとまともにぶつかるのが無茶であるのと同様には無茶であり、農業は工業製品組立とは違って、地方の雇用や安全保障により密接に関わってくる点を考慮しなければならないのだとしても、フランスにも遠く及ばないようでは産業育成や保護の在り方としては間違っているとしか言いようがない。
消費者は同時に労働者であるから、私は単純に消費者利益のみを追求するのには反対であるが、理屈はどうであれ、保護主義が消費者の犠牲の上に成り立っている側面があるのもまた事実なのである。
雇用は重要であるが、それに固執して産業の非合理化を促してしまうのもまた、理論に固執することになってしまうだろう。