TPP参加交渉問題考

TPPに関する内田樹先生の文章、
さよならアメリカ、さよなら中国
こちらのブログ記事は、ちょっとびっくりするほど経済学に関する理解の欠如を示されていると思う。これに対して、池田信夫氏が(私は氏については先生とは呼ばない)、内田樹氏の知らない比較優位で『誤認』を指摘されているのも、もっともだとは思うが、全体を通して言えば私は内田先生の論に説得力があり、池田氏の論は浅薄に過ぎるように思う。
総論では内田先生は正しいが各論では誤謬だらけである。各論では池田氏は正確だが総論ではねじまがった見解だと私は思う。
比較生産費説を内田先生がおそらくきちんとは把握されておられない、そしてその知識が高校の政経レベルのお話だと言うのはその通りなのだが、いまさら古典的なこの理論で現代世界が説明しきれるものではなく、であれば、現代のこの問題を論じている時に、「高校生レベルの話も知らないなんて、やーいやーい」というのも本筋から離れた揚げ足取りにしか思えない。
内田先生は雇用と安定的な生活水準の維持、格差の小ささを重視する国民経済重視の立場に立っていることを踏まえればその論は「経験的」あるいは「歴史的」に言えば合理である。その視点から、「理論」を否定しているのだ。
比較生産費説や自由貿易それ自体が福祉の向上につながるような見解に対しては、では、葡萄酒だけを作ったポルトガルは国民レベルで豊かになったと言えるのかという単純かつ深刻な問いかけをしてもよい。より保護主義的であったドイツやアメリカがどうしてより体力のある経済構造を作り上げたのか。
究極の特化生産であるモノカルチャー経済が個々の国家と国民にいったい何をもたらしたのか。
こう問いかけてもよい。リバタリアニズムが勢威を誇るようになった80年代以後、アメリカのごく少数の富裕層を除いた大多数の国民にとって、雇用は安定したのかどうか、生活が楽になったのかどうか。
否、であるからこそ、反ウォール街デモが広がっているわけである。


オバマ政権の意図が何であるのか、私はそこに過剰に「侵略的意図」を見るのはどうなのかと思うが、そう見られるだけの文脈はあって、それはオバマ国民国家復権を就任演説の時からはっきりと打ち出しているからである。アメリカという国民国家に視点を置いたならば(つまり消費者や生産者ではなく、アメリカ国民を受益者の対象として土台に置いたならば)、重商主義的な「国益」を確保する意図があるのだろうと推測するのは文脈的に言えば筋が通った解釈である。重商主義的な国益の概念は、貿易赤字・貿易黒字という語に対する誤解を生じさせやすく、この点、池田信夫氏が特にこの点を指摘しているのは理があることだが、内田先生は雇用の確保という視点から事象を捉えているので、「国民国家の保護」という視点から言えば、結果的に重商主義的な国益概念の誤謬にも理がないわけではないと言える。
つまり、ほとんど日本で産出されない羊毛のような商品であれば、羊毛産出国との貿易は完全にウィンウィンの関係になるが、競合産品では雇用の確保という点ではゼロサムになりやすいことは事実であろう。ただし、実際の状況はもう少し複雑で、80年代からの日米貿易摩擦の結果、日本車メーカーはアメリカ国内に現地工場をたくさん作ったが、これがそのまま日本国内の雇用空洞化につながったかと言えばそうとも言い切れない。東日本大震災で部品供給や中間生産財供給が滞り、アメリカの工場も休業を余儀なくされたように、供給地は複雑に配置され、全体として自動車消費需要が伸びれば、結果的にウィンウィンになることもあるからである。しかしそれはあくまで結果論であって、雇用を軸に置けば、むしろゼロサムなのが当たり前ということになる。
オバマは明確に国民国家復権を掲げたのであり、メディケア改革はその線に沿っている。通商政策について言うならば、普通は保護主義的になるだろうと予想されるのだが、TPP という自由貿易政策に舵を切ったのだとしたら、それがアメリカの雇用にとってプラスになると判断したからだろう。


一国の政府が国民全体の福祉を当然ながら考慮するであろうと言う国民国家像は歴史的に言えば決してマジョリティではなく、現在でも、そしてこれからも、それを当たり前のものとして期待は出来ないのかも知れない。
アジア諸国がどうして西欧帝国主義に屈したかと言えば、ほとんどの地域で国民国家性を獲得できなかったからである。日本でもかつてはそうであった。利益のために、領民を白人の奴隷に売った九州の大名たちの姿は、インドや東南アジアの支配者たちに普通に見られる景色であった。それが問題である、自分の政権や自分の「国」にとって大問題であると認識した豊臣秀吉徳川家康のような国家指導者の方がアジア的水準から言えば異端であったのであり、その異端がいて、彼らの中央政権成立がぎりぎり間に合ったからこそ、日本は守られたのである。
20世紀初頭までの中国人が「砂のよう」であったのは中国が一つの完結した世界だったからである。世界人であることはアイデンティティとしては「ヒトである」と言う以上の意味はなく、そこでは国民レベルでの同胞意識など育ちようがない。富豪が貧民の生活や雇用を案じるのは同胞意識がかけらでもあればこそであり、それがなくなれば貧民は労働力でしかない。労働力と言う意味さえ失われれば、暴徒、あるいは潜在的暴徒でしかない。
その、清王朝的な世界性に80年代以後、アメリカが陥ったからこその、国民国家の崩壊なのである。


私たちは一個の人間が同時に、日本人であり、消費者であり、生産者であり、あるいは資本家である。そのどれもが重要であり、そのどれもが存在を危うくされてはならないのである。
自由貿易保護貿易かという二者択一的な世界観に陥ることなく、その中でバランスをとりながら、全体としては国民国家を保持することが重要なのだ。アメリカや中国では、そのいくつかの属性を捨て去った人たちが多数いるからこその、反ウォール街デモなのであり、いまだに続く祖国脱出者たちの群れなのである。
この、今ここにある危機を強く認識しなければならないのは、皮肉にも池田氏が指摘するように、グローバル経済が主義ではなく事実であるからだ。ごく単純な事実でありながら、ほとんど誰もが意識していないことをひとつ指摘しておこう。
アメリカを含む西欧社会以外で、高度な産業変革を成し遂げたのはごく最近まで、どれほどさかのぼってもせいぜいが80年代まで、唯一、日本だけであった。これを言えば、皮肉屋の白人が頬をゆがめて「日本の悪しき特殊主義」だと批判するのが目に浮かぶようだが事実なのはしようがない。日本は特殊な国であり、日本だけが成し遂げたことである。
別にナショナリズムを満足させるために今それをここで持ち出しているのではない。60年代、70年代、80年代と、日本は相当な負荷を西欧諸国の製造業に与え、そのいくつかを壊滅に追いやった。西欧諸国にとっては決して無視できる負荷ではなかったが、それでもたかが日本一国が相手の話であった。
今ではその相手が地球人口の半分以上の新興国になっている。構造は同じでも程度がはなはだしく違う。ゆるやかな調整の中で次第に薄められた「日本の衝撃」と違い、今の衝撃は焼畑的な強烈さを伴っている。
国家とはなんなのか、国家は何のために存在するのか。そのレベルから私たちは問いかける必要に迫られているのである。