鎌倉慰霊紀行(1)
ここ何年か、年末には鎌倉の寺社に参詣している。初詣は人混みが嫌で、松の内が終わった頃に、近場の、それも参る者もいないような道祖神やら小さな稲荷やらに参ることにしているのだが、年末の参詣は他の時期は一切寺社仏閣には立ち寄らないため、諸々の寺社仏閣が揃っている鎌倉で一気に済ませることにしている。
特に篤心ある人間ではないのだが、何年も前にたまたま思いついて、鎌倉某寺で先祖供養というか亡父・亡兄の供養をして貰い、郷里の家族や親戚に報告したところ、思いのほか評判が良かったので、年末に時間を作って供養やら参詣をしているのである。私は宗教とは生きている人のためにあると思っている。極楽なり黄泉なりがあるかどうかは分からぬし、理で言うならば神も仏もあるまいよと思ってはいるが、かりそめにもそういうものがあると心のどこかで仮定して、その仮定を敬してみせることで私や周囲の人たちの心が幾らかでも軽くなるならば、決して無意味、無駄なものではないと思う。
自分としては、親鸞聖人のおっしゃった、「本当のところは自分も法然のおっしゃった極楽浄土があるかないかは分からないが、法然が好きなので仮に嘘であっても騙されても良いと思っている」というお考えに近いような気がする。
そういうわけで、鎌倉の寺社仏閣はあらかた参った経験がある私であるが、今年はこういう年でもあったことから、慰霊をテーマに鎌倉を歩いてみることにしてみた。文字どおり「歩く」のである。自動車と電車を使って、点々でしか回ったことがない鎌倉を、地べたを這って回ってみようと言うのである。いくら堅牢な鎌倉とは言え、山岳を歩くわけではないので、それほどのおおごととは思わないが、男の足のみで回るに越したことはない。わずか一日のことなので旅と呼ぶのも大仰だが、言うなれば武家のみやこの一人旅であった。
十二月に入ってからの休日早朝、北鎌倉から旅を始めた。寺社と言うが私の興味は土俗的なものに惹かれる傾向があり、寺よりは社の方が好きである。と言いつつも、起点は北鎌倉であるから、寺になった。相模は日本の武家貴族たちの黎明の地である。横須賀線の北鎌倉駅がある界隈は、山之内と呼ばれ、関ヶ原の戦いの後、土佐の国主となった山内一豊の祖はかつてこのあたりの庄を領していたことからその家名が起こったという。毛利にせよ、島津にせよ、苗字の地をこの周辺に持つ名族は多い。
室町時代には関東管領家の山内上杉家の屋形もこの地にあったというが、当時であればどれほどさみしい土地であっただろうか。地形は全体としてはV字谷に近い。もとより人が住める地は狭隘な底部にしかなく、山肌を削るようにして鎌倉五山の面々が伽藍を岩肌に食い込ませている。私が鎌倉を訪れるたびに思うのが、よくもこのような場所に、「みやこ」を築こうとしたものだと言う感想である。北鎌倉は特にその感想が強くなる。
「みやこ」とは広く人や物資に道が開かれ、往来の場所となる処である。鎌倉はどこか土地そのものが人を拒絶しているような、印象を与える。「みやこ」としての適性に著しく欠いている場所である。類似を言うならば、戦国の時に越前朝倉家が居を構えた一乗谷に似ている。鎌倉に府を置こうとする発想は、一所を守る武家の発想であって、天下の仕置き人の発想ではない。狭隘さで言えば、福原に都を置いた平清盛の発想に近いかもしれないが、六甲が近いとはいえ福原はよほど開けているし、何よりも、海を活かそうとする発想がある。まして後世の、織豊や徳川の発想からはよほどかけ離れている。
鎌倉の政権が、良くも悪くも地べたから石を積むようにして力を積み上げた、よく言えば堅実な、悪く言えば跳躍のない政府であったことは、鎌倉という土地自体が語っているように思える。
私が旅の起点としたのは東慶寺であった。よほど早朝であったため、寺門は閉じられていたが、どうせ源氏山をまずは目指すのであれば、東慶寺の前だけでも拝しておくのも面白かろうと思ったのである。東慶寺は北条時宗の室が開き、長らく縁切り寺として知られた。後醍醐天皇の皇女が主として入ったこともあれば、天秀尼(豊臣秀頼の娘)が余生を送ったこともある。東慶寺の前の道を南にいけば、巨袋坂の切り通しを経て、八幡宮へと至る。
しかし、私はその反対を進み、源氏山を目指す。
頼朝が初めて鎌倉に入った時も、源氏山を通ったようだ。源氏山へ至る山道にも、それぞれに財を成したであろうそれなりの瀟洒な家が並び、ただの鄙びた寒村であった頃の末裔は今もまだその中にいるのだろうかなどと考えて、足を進めた。都市化された田舎、というようなことを考える。里山とはそもそも人工化された自然であって、自然そのものではない。人が生きるのだから、そのようになって当たり前である。金持ちが住む田園などは里山が更に戯作化された狂態であって、多くは雑多な下町などよりも滑稽である。それはまるで、ゴルフの芝のコースを自然と愛でるような、オオカミの子孫をマルチーズにしてしまうような、滑稽さを伴うものである。しかし北鎌倉は、確かにそのような悪意のある田園趣味を持ちながらもなお、飼いならされていない自然がやはり厳としてある。この土地が、そのような文明に飼いならされてしまうのが叶わぬほど猛々しいからである。
関東は大河と氾濫が築いた平野の地であるが、そのような母のごときなだらかさは鎌倉に最も欠けている資質である。この地がかりそめにも「関東」であったこと、あたかも「関東」を代表するかのような顔を長らくしていたことに違和感を感じるゆえんである。鎌倉幕府の歴史は陰謀と粛清の歴史であるが、その陰惨さは、どこか真剣の切っ先に似たこの土地の風土が作り出したような気がしてならない。
源氏山の頂上を目指す狭隘な山道に、せりだすように「舞台」が構築され、そのわずかに築かれた「平地」の上に家が建っている。そういう家が幾つもある。他人事ながら、なぜそうまでしてここに住もうとするのか、住まねばならないのか、理解しかねる建築である。むろん、そのような無理であっても、北鎌倉なれば高値で家屋が売れるという経済的な現実がある。しかし逆に言えばそのような経済的な現実、今日の私たちの文明を突き動かす唯一の情動をもってしても、冗談のような土地をこしらえることでしか対処できない、鎌倉の自然という現実もあるのである。あるいは私たちはそれを野性と呼んでも差し支えないのかも知れない。
そのような道を進みやがて、源氏山の頂上に達する。葛原岡神社である。
鎌倉の切り通しがあった場所はすべてそうであるが、化粧坂の切り通しに近いこの地もかつては刑場であった。境とは土地と土地の境界であると同時に、この世とあの世の境であった。葛原岡神社の祭神は「忠臣」日野俊基公である。日野家は藤原北家に属する公卿の中では大納言を極官とする家系で、ただし、室町時代には足利将軍家と特殊な閨閥を築いたことから、実質的な家格の上昇を見た。その閨閥の縁となったのもそもそもを言えば、後醍醐天皇の「忠臣」たる日野俊基であったから、源氏山のこの地で、「反逆者」として鎌倉幕府によって処刑された日野俊基によって、後の日野富子は準備されたことになろう。
私はそもそも後醍醐天皇にはわりあい厳しいまなざしを持っているのだが、葛原岡神社に特に好意的になれないのは、いろいろな意味で、ねじれを感じるからである。葛原岡神社は鎌倉宮と同様に、維新後、明治天皇の指示で創建されている。南朝の忠臣を北朝の天皇が称賛するというのも欺瞞であろうし、そのねじれの中に皇国史観的な無理を感じるからである。今一つ、幕府の地を一望にできるこの地、ここから頼朝が鶴岡八幡を拝したというこの地に、幕府転覆計画者の神社を置こうという発想そのものが、武家のみやこに対する侮辱ではなかろうかと感じるからである。
もっとも、このことをそれほど敏感に捉える鎌倉市民は今日ではほぼ皆無であろう。鎌倉市民と言っても、畢竟は多くは明治以後に流入した者が大半で、つまりは「西国の流れ」の者たちが過半であろうから。ここから少し離れたところに頼朝公の像を置き、同時に武家のみやこを滅ぼした公卿の墓と神社を置くと言う融通無碍さは、ある意味、平和であり、ある意味鈍感である。平和とはそもそも加害者側の鈍感を言い換えたものに過ぎないのかも知れないが。
さて、いずれが加害者でありいずれが被害者であるのか。
ただの観光客なればこそ、それ以上は考えずに、魔去ル石にかわらけを「プロージット!」と言いながら叩きつけ、何の厄か分からぬがとりあえず厄を払ったことにした。