鎌倉慰霊紀行(2)

化粧坂切通しからは南東方向に向かって、鎌倉の景色が見える。海が見える。頼朝が材木座のあたりにあったと言う、当時の鶴ヶ丘八幡をここから遠く見た時は、海はもっと近かっただろう。
右手に方向を変えて、銭洗弁天に向かって、歩いた。道そのものに無理があるのではないかと思う。化粧坂切通しもそうだが、銭洗弁天から源氏山に向かう道も舗装されているとはいえ、実に峻急である。時に半直角の角度になっている部分さえあり、そこを自動車が上り下りするのはかなり限界ぎりぎりな感じがする。岩場にへばりつくような家と、余所ではまず許容されないような鈍角な道路は鎌倉のあちらこちらで見られる。余所であれば、土木をしてより傾斜の小さい坂にするか、いっそのこと坂を諦めて階段にするような角度であっても、鎌倉では当たり前のように坂になっている。それも舗装されているのであれば、行政自体が容認していると言うことだ。
こういうことではないかと思うことがある。鎌倉はずっとみやこであったわけではない。奈良が古都でありながら、みやこであることを止めてからはむしろ草深い印象があるのと同様かそれ以上に、鎌倉は東勝寺で北条家が族滅してからは、基本的には田舎の地方都市であった、時には都市であることさえ覚束なかった。鎌倉が「復興」したのは明治になってから、東京の文人や財界人が銘々の趣味に応じて流入し、その消費生活を支える人たちも流入してからで、「復興」は基本的に民間主体で、無計画に随時なされていった。
鎌倉には濃厚にスプロール化現象の風合いがある。その場しのぎの、一時的な対応策が積み重なった結果、古都と言いながら、全体的なグランドデザインはむしろ醜い。後になって何かしら統一的な開発計画を導入しようにも、地価が高くてどうにもならないというところではないだろうか。
そのようなことを考えつつ、銭洗弁天の洞窟をくぐった。銭洗弁天に行くには、洞窟をくぐらなければならない。むろん、裏道である佐助稲荷神社の方向から到達することも出来るが、参道にあたるのはこの洞窟であろう。
先の東日本大震災で古い社は高台にあったため津波被害を免れたように、神社というものは基本的に山の上にあるものである。1498年には津波が現在の高徳院にまで達し、大仏殿が流された記録があるように、鎌倉にも過去に何度か大きな津波が押し寄せたはずである。それを考えるならば「土を削って洞窟を作る」という発想がいかに異様であるのかが分かる。
銭洗弁天自体が三方を崖地に囲まれた小さな「盆地」のなかにある。しかしその崖地の肌を見ると、どうにも、それは人工的に削られたように見受けられる。本殿自体はその中でもより高い場所にあるのだが、せっかくの山をどうして敢えて削って低くしているのか、理解しかねる。洞窟の参道なるものが他では滅多に見られないのも、そもそも削ってしまっては山ではないからであり、神社は山にあるべきものだからである。銭洗弁天の地形のコンセプトは、通常の神社のコンセプトからは外れている。
銭洗弁天自体にはさしたる興味はないのだが、佐助稲荷に出るために、道として使わせていただいたのだが、道、と考えてはっとした。そもそも道なのかなんなのかは分からないが、削ること自体に意味があったのではないか。地形が先にあり、弁天は後で持ち込まれたものかも知れない。切通しのようなものだったのではないだろうか。
弁天を出て、佐助稲荷神社へ参った。佐助稲荷は実は自分としては鎌倉で最も好きな寺社である。より大きな寺社で埋め尽くされている鎌倉では、佐助稲荷にまで足を延ばす人はたくさんはいないだろう。千本鳥居とまではいかないにしても、参道は稲荷らしく鳥居で埋め尽くされていて、寄進者の名を見ると、神奈川を中心に関東近県の人が多い。よりローカルな風情があるのが良い。
佐助とは右兵衛佐である頼朝(佐殿)を助ける、という意味である。佐という文字自体、補佐や vice という意味合いがあるので、佐助とは補佐を補佐すると言う二重の vice の意味があり、そこがちょっと面白いと思っている。現在の佐助地区や銭洗弁天のあたりに住まっていた人たちは、弁天の地形を敢えて変形させるほどに、交易などの何か特殊な生業に従事していたのではないか。その人たちが、頼朝挙兵の際、最初期の中核として、頼朝を助けたのだろう。
佐助稲荷神社は、その論功として頼朝によって創建されている。鎌倉では創建が古い神社である。鬱蒼と茂った木々に覆われた山肌は森と言うよりは密林のようである。そもそも日本の山とはこのようなもので、物理的に容易に人が踏み入れられないものであった。人が掻き分けて入ることが出来るのは里山である。隙間なく地肌を埋め尽くした下草ですら人の背丈ほどもあろうかと言う植物の群れは、それ自体が暴力であり、佐助稲荷の周囲の森は、良くも悪くも野生の匂いがする。その木々の中を、今ではタイワンリスが駆け回っている。
佐助稲荷を私が好きなのはそのそっけなさである。鎌倉と言う土地の原初的な息吹を感じさせてくれるからである。
さて、佐助稲荷を出てからは少しばかり長歩きすることになった。できれば極楽寺もまわりたかったのだが、ここから先は主に鎌倉の丑寅を回ることになるので反対の辰巳方向に位置する極楽寺を回れば移動ロスが大きくなり過ぎる。星の井から極楽寺切通しを歩くのは、私の好きな道なのだが、今日のところはやめておくことにした。
極楽寺六波羅探題連署を務めた北条重時の創建になることから彼の家流を極楽寺流とも言う。後に八幡宮の赤橋の近くにも居を構えたことから赤橋流とも言い、北条一族の中では得宗家に次ぐ家格であった。最後の執権・北条(赤橋)守時はこの家系の出で、足利尊氏の室は北条守時の妹にあたる。極楽寺界隈は鎌倉の裏鬼門を鎮守すると同時に、西の防衛拠点となっていた。その先の腰越で義経がとどめ置かれたように、実質的には鎌倉の西の果てであった。
私が目指すのは、鎌倉駅を通って、段葛を横切り、祇園山のふところにある東勝寺跡である。跡であるから、実際には何もない原っぱである。大きさはわりあい大き目の幼稚園のグラウンドいっぱいというところか。小学校のグラウンドほどの大きさはない。
1333年の東勝寺合戦で北条一族はこの地で次々と腹を切り、族滅した。やたら規模の大きい滅びという点では壇ノ浦に匹敵するような史跡である。1000人から1200人の北条一門がこの地で自刃したと伝えられるが、無理だろうと思う。とてもそれだけの人数を収容できる広さはない。例によって山肌を削り、かろうじて平坦な土地をこしらえた人工的な地形をしていて、その周辺に散らばったとしても、1000人を越える人を収容できるものではない。北条一門のほとんどがここで自刃したのは確かであるが、得宗家の嫡男である時行は信濃にのがれて後に中先代の乱を起こす。その後は、南朝と結託するが、結局は足利に捕えられ処刑されている。南北朝に分かれた時、北朝に加担していたならばどうなっていただろうか。尊氏の室が北条一門の出であったように、人脈的にはむしろ足利に加担した方が自然であったようにも思うが、これもまた、鎌倉幕府の滅亡が、鎌倉武士団内部の権力闘争であったと考えれば、時行の行動も理解できるように思う。朝廷はむしろ背景であるに過ぎない。
桜のごとく華々しく散る、というのが日本人の美意識であるならば、確かに日本は他国の例よりもずっと多く、そのような族滅が多く見られる国である。他国ではとにかく生き延びれば道は開けると考える。時行はその例外であったろうが、東勝寺で滅した北条一門も鎌倉を脱すれば、なにがしらの道はあったのかも知れない。そのような族滅を数え上げれば、かなり多くが、平安末期から南北朝にかけて集中している。地理的にも鎌倉と言う小さな市に、族滅跡が集中している。武家のみやこがいかに陰惨なものであったのかが伺えるが、数多くの豪族を族滅させてきた北条家もやはり最期は同じ道を進むしかなかったのかも知れない。
東勝寺跡から少し祇園山に入ったところに高時腹切りやぐらがある。オカルト好きな人たちの間では、有名なパワースポットらしいが、私はむしろ静かな、安らかなものを感じた。北条一門にとっては無念の死であったかもしれないが、日本史の中ではしょせんは多数の中のひとつに過ぎない。そんなものをいちいち気にしていたら、広島の平和公園あたりなどとても歩けたものではないだろう。
どのような最期であっても高時本人についてはしょせんは本人が招いた最期である。ただ、そのために散った無名の人々のためには祈るべきであって、約800年前にこの地で起きた大虐殺の光景を思い浮かべながら、フェンスで覆われた東勝寺跡に向けて、小さく念仏をした。