世界の見方、という言い方について

http://togetter.com/li/430429
NYT記者と池田信夫さんとの論争を読んだ。従軍慰安婦問題については僕は河野談話の見解が妥当だと考えている。細部の問題においては、確かに論争的な余地はあるが、政府が当事者と面談を重ねたうえでのオーラルな証言の体系でもあるわけで、極小のレベルに話をとどめるのは、はぐらかそうとしている印象しか第三者には与えないだろうと思う。
ただし、河野談話を踏まえて日本政府がどういう行動をとったかと言うと、日本政府としては個別補償は条約上応じられないので、法的には無視してかまわない問題であるが、人道上の配慮から事実上政府主体の基金を設立した。現在の日本政府の法的解釈から言えばそれ以上のことはしようがない訳である。過去は変えられないわけで、法的に決着した問題について、更に批判的に強調することはそれ自体が差別的な動機と行為である、と私は見ている。
NYTもこうした事情について報道しているならばともかく、sex slaves という慰安婦そのものとは範囲が異なる語を用いていることはセンセーショナリズムというしかない。
それにしても、自分たちの見方を「世界の見方」であるとナチュラルに思い込んでいる欧米人は多いよねと思う。彼らのその主流感、盲目的な自己肯定感情はどこから来るのか疑問に思うし、それ自体が見方を歪めるものだ。
先日の総選挙について、在日アメリカ人が英語で書いているブログで、安倍・橋下・石原、この中からどうやって選べと?というような内容の記事を書いていて、日本に対して非常に嘲笑的な内容であった。まあ、在日外国人が石原のような男に対して好意的であるはずがないので、彼の感情自体は理解できたにしても、例えば日本の議院内閣制について「首相も国民が選べないんだよ、信じられない」というように書いていて、世界の政治制度の趨勢に対する無知もあって、全体に批判のための批判であった。それ自体はよくあるブログ記事のひとつに過ぎなかったが、その記事を肯定的に紹介していた別のアメリカ人がいて、僕はその記事のどこをどう肯定できるのかを聞いてみたのである。
元記事の書き手はどうも日本の政治の流れや争点や、各国との比較で知識が欠けているように見えるのだが、それをどう肯定できるのかを聞いてみた。例えば、安倍を極右と呼ぶならば、彼が主張しているような、
自衛権を拡大した交戦権を容認する形での憲法改正
歴史認識において「誇り」のようなものを重視するスタンス
・家族制度において守旧的なスタンス
をとるならば極右だとして、アメリカの政治家で極右ではない政治家はいるのかどうかを聞いてみた。
記事を肯定的に紹介したアメリカ人は元記事の書き手が全体に無知であることは認めたうえで、無知な人だって発言はしますからね、ああいうのが日本に対する見方のマジョリティであるから、その見方を日本人が知っておくのは利益にはなるでしょう、と言った。
いや、あなたそもそも内容を肯定したではないですか、と言おうかと思ったが、そういう見方を知る利益とは具体的に何?無視した場合の不利益は何?争点について知識が不十分で論理的一貫性に欠ける意見が日本に与え得る影響とは具体的に何ですか?その利害得失を検討してみましょうよ、と言ったらむにゃむにゃとなった。
実際問題として、欧米のマスメディア全般が安倍政権に対してわりあい厳しめの視線を送っているのは傾向的な事実であるが、その内容にはまあ少なくとも論理的な一貫性はないなと言うしかないのである。
それでも、イランや中国、北朝鮮アラブ諸国ベネズエラ、ロシア、インド、ブラジルなど西欧的視点から言えばわが道を行っている国が多々あり、西欧的価値判断がほとんど影響を及ぼせていない現実において、日本が極小の独自路線を行くとしてあなたがたが及ぼせる影響力って一体なんですか?と私は聞いたのである。
捕鯨ひとつとっても、あれだけ見解が食い違っているのに、日本国家に対して、ほとんどダメージを与え得ていない。
欧米人は一般に自分たちの見方を過大に評価する傾向があって、それ自体が見方の公平さ、ひいては現実的な対処能力に悪影響を及ぼしていると私は思う。NYTの記者も、「それが世界の見方です」みたいな証明性もなく、影響力も及ぼせない、論理構築力に欠けるようなマスターベーションな言説を用いるべきではなく、池田さんと組み合う必要はないが、世界史において各国との比較において、法的な経緯を踏まえて、独自の論理構成を行って欲しいものである。
現状では意見がどうこう言う以前に、言説としてレベルが低い。
そのレベルの低さを自意識においても実際においても覆い隠しているのが、主流性の確信と幻想なのである。欧米メディアはそうしたファンタジーによって自分たちが守られていて底上げされている、実際の自分たちのレベルは自意識からは数段下だというところから冷徹に世界観の構築にあたるべきだろう。