日本人と英語

英語の話か。
僕は英文はほぼ毎日書いているし、読んでもいる。外国の人ともかなり細かい話もやりとりをしているし、お世辞9割としても、ネイティヴに、英作文は褒められることも稀ではない。とは言え、ここで英文を書くつもりは全くない。それはわずかな間違いを鬼の首をとったかのように言って騒ぎ立てる英語ゲシュタポみたいな人が日本人で英語で食っている人には多いからであり、この日本人同士の足の引っ張り合いが、インターネット上で英語で発言する日本人が少ない理由だと僕は考えている。
言葉の場合は、これでまずまずというゴールみたいなものはなくて、上には上がいるし、勉強に終わりはない。特に、日本人が英語を学ぶのは、アメリカ人が日本語を学ぶよりもはるかに難しくて、"The Merchant of Venice" を和訳しようと思えば「ベニスの商人」以外にはほぼ訳しようがないのに対し、その逆だったら、"Merchant in Venice" なのか、"Merchants of Venice" なのか、候補が多すぎて、これだ、と決める時、僕はいつも4割くらいは不安を抱えている。その不安を抱えているところに対し、英語プロパーみたいな人からダメ押しをされると、もう絶対そんなところには関わらないでおこうと思ってしまうのだ。
だから、猪瀬直樹都知事Twitter での英文の発言に対して、駄目出しをしたこちらの方に対して、それじゃあ、日本人を委縮させるだけだよと批判したこちらの方の意見に共感する。
共感するけれども、さて、と思う面もある。こういうことは自分を棚に上げて言わないと言えたものではないが、敢えてそれをして言うならば、猪瀬都知事の英文がひどすぎる、と正直思うからである。
そもそもの英文の発想として、一度テーマに焦点をあてたならば、何らかの「ケリ」をつけないといけない。しかし日本語の文章では「ケリ」をつけないことが多い。むしろケリをつけずに、パッと空中に霧散させるような、俳味のようなものでまとめるのがむしろ良い文章と言われたりする。逆に、英語人が日本文を書くときに、間がなくて、窮屈な感じがする、そもそも改行などの物理的な間自体が少ないと感じるのは、日本語と英語の設計思想そのものが違うからである。
言うなれば、日本人は読者の共感をあらかじめ期待して書いている。英語はたとえるなら読者は敵である。共感は自明のものとしては存在していない。
最近話題になった、
無職63歳 「新幹線で指定券買ってないけど座りたかった。仕方なく親子連れの子供の席を譲ってもらった」 朝日投書
こちらの記事だが、「私は虚を突かれた思いがした。」とか「三景をどう考えたらいいのか自問した。」のように正しく投書文法のフォーマットに沿いながら、偏見や思い込みを俳味に仕立てあげるという、日本語の自己批判性の欠落が典型的に表れている。「〜と思うのは私だけだろうか」みたいなしみったれた表現もあればなお典型的だったのだが、論理構築力の欠如を間・俳味として処理している。この書き手の自我があまりにもリーガルな基準からずれていたため、その没論理性が目立っただけで、こういう文章は山ほどあるし、むしろそういう文章の方が名文とされがちである。ほとんど筒井康隆のパロディの世界である。
猪瀬直樹都知事は作家であり、日本語世界において作家となった人であって、良くも悪くも発想が日本語的である。
彼の発想をそのまま直訳すれば、英文のフォーマットには乗らないし、もっとはっきり言えば、バカに見えるのだ。
英語の世界にもいろんな人がいる。私のつたない英語にも世辞を言ってくれて、意見の違いはあっても英文自体は理解しようとしてくれる人は、言うなれば知識人であって、知識人としての礼儀から、言語能力と知性は分けて考えてくれている。
そういう人は決して多数派ではないし、そもそも知識人でももっと戦術的に振る舞う場合もある。つまり、敢えて言語能力を貶めることで相手の見解そのものがとるにたらないものであるかのように思わせようとする場合もあるし、知識人でなければ、一般人ならなおさらである。
JALの機長の英語のアナウンスがひどいよねという話にアメリカ人となった時、まあ実際、ひどいことが多くて、客室乗務員の方がよほど洗練された英語を話すのだけれど、あれって日本の国益を損ねてるんじゃない?とそのアメリカ人は善意からそう言ったことがあった。僕はその時は、日本の航空会社が外国人向けに英語のアナウンスをしていること自体、アメリカ人利用者は感謝すべきなんじゃない?アメリカの航空会社の飛行機に乗っても、僕なんか日本語を話してくれるなんて全然期待できないよと言ったら、英語は世界語だからね、とそのアメリカ人は言った。
悔しいかな、それはそうなのだ。彼が言うには、大体が、機内アナウンスなんて定型があって、毎回、同じことを言えばいいだけであって、そのアナウンスの発音さえ満足にできないなら、要はそれは能力の欠如の問題をどうしても印象付ける。はっきり言って、数時間レッスンすれば劇的に向上するはずだ。それさえしないのは、外国人に歩み寄る意思の欠落を感じさせて、日本の閉鎖性を宣伝しているようなものだ。
急いでいうならば、彼自身は、そう言いながら、確かにだからと言って、非ネイティヴスピーカーの発音をあげつらうのは英語人の傲慢なんだけどね、と自覚はしていたが、世界の現実としてそういうものなんだということは分かっておいた方がいいんじゃないかしらと言っていたし、世界の現実の話としてなら僕もまったく同意だ。
猪瀬さんの英語は、単語がどうしたとか文法がどうしたという以前に、発想が日本語のものであって、猪瀬さんの能力や性格に対して誤解を招きやすいのは確かだろうと思う。そういうものでも、そういうものであっても、日本人による英語での発信はないよりはあった方がいい。ないよりはあった方がいいと思うから、他の日本人の英語をどうこう言うのは僕は好きではないし、やるべきではないと思う。
でも、東京都知事の発信が、そんな一般人と同レベルの立ち位置でいいものなのだろうか。
英語で発信しようとするならば、彼の立場ならば、幼少期からオックスブリッジで学んでイギリス英語がぺらぺらですよという程度の英語で発信して欲しいと思うし、それが個人の能力として叶わないならプロを通せばいいだけのことである。その程度の予算は東京都ならつけられるでしょうに。
世界の世論的な見方で言うならば石原慎太郎の後継者である猪瀬都知事は最初から色眼鏡で見られている。そのことは自覚しておいた方がいい。マイナスからの出発なんだということを。そういう状況でああいう稚拙な英語で発信していたら敵に塩を送るだけだ。