峯岸みなみは犠牲者じゃない

AKB48の処女性をどれだけ真面目に信じているかはともかくとして、「彼女ら」(AKB48自身とスタッフを含めて)は、“恋愛禁止”を売り物にしていたわけである。その売り口上が嘘ならば、それは詐欺である。詐欺を働いた女を、人権がどうしたとか犠牲者めいた扱いをするのは筋が違うのではないか。
もちろん、その虚構の処女性のやりとり自体が「おぞましい」と感じる人もいるだろうが、一応はリーガルなビジネスとして成立していて、お金のやりとりが消費者との間でなされているのだ。処女性の不可逆性を思えば、それが詐欺であったならば何億というお金が返金されてしかるべきである。それが坊主になったくらいでちゃらになるなら安いものだろう。
謝罪会見や「体罰」なるものに、リンチ性とか、イリーガル性があるのは確かだが、そこには同時に、温情のようなものもある。「私たちは処女を守りますから応援してください(経済的に私たちのために蕩尽してください)」という口約束を破り、蕩尽された何億というカネはそのままに、ごめんなさいと言えば許してもらえる、同調圧力のリンチ性は同時に苛烈なリーガルな処分を回避することにつながっている。
処女性を対価としたマネーが関与した「契約」を棚上げしてもらえるという大甘な処理を無視して、峯岸みなみの人権を言うのは本当に的外れな意見だ。
AKB48は意図的に三流四流の人材が集められている。秋元康は「成長する姿を一緒に追っていく」ときれいごとを言っているが、要は消費ターゲット層として想定しているのが性的ヒエラルヒーで最下層に近いオタク層だからで、「自分たちでも手が届く(かも知れない)」という中途半端にリアリティのある妄想をかきたてさせるためである。
AKB48は最初からアイドルではない。アイドルは、手が届かないスターであり、天女のようなものとして愛でるのが本来の姿だからである。AKB48はアイドルのフォーマットを利用しながらも、実際にはもっと肉感的な、翼のない「女子たち」である。
用途が違うのであって、援助交際をしない「援助交際女子」というか、ヴァーチャルな援助交際相手である。恋愛禁止というのも、彼女たちが「かりそめのガールフレンド」であることを前提にすればむしろ恋愛禁止ではない方がおかしい。
恋愛禁止は、全然本筋と関係ないところにとりつけられた、例えば高校球児は丸坊主じゃないといけないみたいな、主筋から離れた無意味な規範なのではなくて、それがないとこのユニットが成立しない、AKB48そのものといってもいい規範である。
ポルノ女優に男優とセックスするよう制作者が指示するのが、「好きでもない男と寝ることを強制する」人権侵害だろうか。
役者にキスシーンでキスをするよう促すのが、「好きでもない相手とキスすることを強制する」人権侵害だろうか。
AKB48というのは、恋愛ヒレラルヒーで最底辺に位置する秋葉原のオタクたちに擬似的な恋愛相手を提供して見返りとして法外なカネを蕩尽させるビジネスモデルなのだから、少なくとも消費者の目につくところで恋愛禁止というのはビジネスの根幹にかかわる規範なのである。
間違ってならないのは、峯岸みなみは収奪される側ではなくする側に立っている。
一応は合法的なビジネスモデルなのだからこういうのは不適当なのだが、あえて被害加害で言うならば被害者ではなく加害者なのである。
このビジネスモデル自体、もちろん問題はあるし、消費者保護の視点でも、フェミの視点でもそれぞれで批判すればいいことだが、現実にこのビジネスモデルが合法的に存在していて、峯岸みなみは自身の処女性をマネタイズしていたんだということを踏まえれば、峯岸みなみを詐欺とみなす文脈がないのはおかしい。
彼女を犠牲者と扱ったりするのは、リーガルな対応ではなくて、丸坊主にしたから許してくださいみたいな対処方法を許す、私刑の論理を容認することと同じことだ。