峯岸みなみは私の生存を危うくした

AKBには興味は無いし、当人たちが納得して関与している以上、AKB商法にも、恋愛禁止を含むAKBのルールにもとりたててどうこう言うつもりはない。AKBやその関与者に対しては侮蔑感情は抱いているが、それは私個人の感情であって、それで断罪するつもりはない。言ってみれば私はAKBについては徹底的に無関心者であり、無関係者である。十把一からげのレベルの低いアイドルが何位になろうとも、誰とくっつこうともどうでもいい話であって、私の人生に関わって来ないなら好きなだけアイドルごっこでもやってなさいよ、と言うだけだった。あの日までは。
まず、そのまえに、巷間言われている「アイドルだから恋愛禁止は当然」というのは過去をひも解いてなお言えるのかどうかを考えてみたい。古くは吉永小百合浜田光夫山口百恵三浦友和のように、所属事務所も違うのに疑似恋愛的なカップルで売り出す、売り出そうとすることは稀ではなかった。80年代に入ってからも、サンミュージックが主導してか、ジャニーズが主導してかは分からないけれども、松田聖子田原俊彦は仕事において明らかにカップルとして扱われることが多かったし、それは中森明菜近藤真彦も同様であった。その擬似的な恋愛関係の中から、百恵・友和と明菜・真彦は実際に恋愛に至ったのであるし、百恵・友和は結婚したのだった。
もちろん、すべてのアイドルが誰かとの「興行的な恋愛」を許認されたり、押し付けられたりしたわけではない。むしろその逆、「アイドルだから恋愛はご法度」というプレッシャーの方が一般的だったろう。しかしそれとはまた異なる売り出し方がアイドルにはあったことも踏まえておくべきではある。
特に山口百恵三浦友和は単体でも人気があるスターであったが、カップリングすることで更に人気が煽られた。80年代のアイドルたちは山口百恵ロールモデルにしていたから、田原俊彦カップリングされることで松田聖子が田原のファンから激しく中傷される、あるいは、中森明菜近藤真彦カップリングされることで公開生放送で歌う際に近藤のファンから罵声を浴びせられるような実際的なリスクがあってなお、百恵・友和モデルへの模倣は繰り返されたのであった。
もっともこれは年齢も重要で、中学生はもちろんながら、高校生も前半であれば、恋愛的なものについては社会が許容していなかった。俗に「歌手一年、総理二年の使い捨て」と言うが、トップセールスの時期が非常に短い印象があるアイドル歌手であっても、トップアイドルたちはだいたい10年程度はトップアイドルとしての立場を維持していて、セールス上のピークはむしろ中期から後期に位置していることが多い。引退が早かった印象のある山口百恵でも実働は7年を越えているのであって、百恵・友和モデルが前面に押し出されるのは後半に入ってからである。
アイドルはおおむね16歳前後でのデビューが多かったから、その時期における恋愛禁止はアイドルという業界的な要請というよりは、特に中高生は恋愛よりは勉学という社会的な要請に従ったものであって、16歳くらいから活動していれば、18歳、19歳というのは活動第一期の区切りになるのであって、それ以後は徐々に恋愛を匂わせるようになるのがむしろ普通であった。恋愛の一つもしないようでは、性的アイコンであるアイドルとしては沽券に係わるからである。
松田聖子田原俊彦の場合はそれぞれデビューが18歳、あるいはそれが過ぎてからという当時としてはかなり遅めであって、社会的な要請から比較的自由であり興行的な視点からのみによってカップリングがなされたものと推測される。
そして小泉今日子がアイドルの虚飾性を相対化し、90年代に入って従来のアイドルシステムが崩壊して、「アイドルは恋愛禁止」という本来の社会的な要請、興行的な要請も崩壊してゆくのである。
AKB48の場合も、デビューからはすでに8年を経過していて、峯岸みなみは20歳を過ぎている。この立場で、15,6歳の頃のような「第一期アイドル」であること自体、戯作的であり、既に相対化されたはずのアイドルを再び聖典として持ち出しているという点において、狂信的である。その意味では、AKB48を80年代アイドルと連続性があるかのように言い、同じ「アイドル」という言葉でくくるのは間違っていると思う。それは原始仏教集団とオウム真理教の間くらいの距離がある。「アイドル」はかつてスターと同義であった。80年代アイドルもまたスターではあったが、そこからスターの要素を完璧に取り除いて、戯作的に「アイドル」なるものを再構築したのがAKB48である。彼女たちはスターではない。
ここまでの口調でもお分かりだと思うが、私はAKB48に批判的であり評価もしていないが、プロデューサー、アイドル当事者、ファンの利害が一致しているならば外野が口を出すつもりはない。ユニットとして「恋愛禁止」を打ち出して、それがAKB48の恋愛オナペットとしての価値に直結していてそういうものとして消費され、それを分かっていて当人たちが参加しているのであれば人権侵害と言うほどのことはないと思うし、それは外野には関係のない内部の規範の問題である。
個人的な感想としては「アイドル」の「ア」の字にもひっかからないような三流四流の素材しか持たない少女たちが、女性らしいお姫様願望を満たすためにそのシステムに乗っかっているだけ、そしてプロデューサーはそれを利用してマネタイズしているだけという身もふたもない荒涼感だけを感じるとしか言いようがないが、当人たちがそれでいいならばまったくもって他人がどうこう言うことではない。
だがしかし峯岸みなみのあのビデオは、私のような無関係者にも悪影響を与えた、迷惑を及ぼしたという点において非常にたちがわるいものであった。


峯岸みなみダンスユニットに属する男性宅にお泊りしたという事実が週刊誌によって報道されて直後に、彼女が丸刈りになり、それを YouTube 上で公開してファンに謝罪する、ということがあった。
YouTube のアカウントが公式アカウントであったことから、「強要されたのではないか」との意見もあるが、私は彼女が言うとおり、事の次第は彼女自身が主導して行ったのだと思う。普通に考えれば、その異様さから、逆効果であり、AKB48そのものやプロデューサーへの社会的な批判が強まることは容易に想像できるからである。
つまりあれを公開して、得られる利益がスタッフ側にはほとんどなく、むしろ損失が大きいからである。
峯岸みなみは「スキャンダル」を「求心力」に替えるスター性が欠落していることを自身が理解しているのだと思う。松田聖子郷ひろみと交際を宣言して丸刈りになったであろうか。彼女自身の商品価値がほとんどないからこそ、現在の地位を守るには現在の消費のされ方、恋愛擬似オナペットとしての立場を死守するしかないと彼女が思い至ったからこそのあの行動であって、その現実認識は正しい。
「これだけの犠牲を払うので、チャラにしてください」
という彼女の訴える相手はファンに対してであり、幾分かは効果があっただろう。
恋愛禁止というユニットの必要上の要請があったにも関わらずそれを破った。しかしユニット活動を続け、ファンを失いたくなかった。それで丸刈りにして許しを乞うた。
彼女の私的な利益から見ればごく合理的な行動である。そこまでするなら最初から交際なんてしなければいいのにと思うけれども、うまくやれると思っていたのだろう。
どちらにせよそれだけならば、私から見れば異常にして異様な、AKB48クラスタの内部の統治案件に過ぎないが、彼女はそれを YouTube で公開してしまった。
その日以来、私の元にも、海外の友人たちから「日本はいったいどうなっているんだ?」「異常極まりない」というようなメールや問い合わせが来るようになった。


日本は叩かれやすい。日本語のウェブに安住しているならば気づきもしないだろうが、英語の世界に一歩出ればダブルスタンダード、トリプルスタンダードで日本は叩かれやすいことに気づくはずだ。
英国の「エコノミスト」や「フィナンシャルタイムズ」は日本については特に歪んだ記事を書きがちで(日本に対してだけではないが)、あれは適当に断片を切り取って、取材もせずに、安楽椅子に座って物語をこしらえる彼らの適当な取材姿勢に由来しているのだが、日本では未だにあれを権威として扱うことが多い。そもそも発行部数が日本の地方紙以下であるようなBBCを除くイギリスのメディアに、ファクトを発掘したり、ファクトから論をたててゆくようなことができるはずがないのだが、最近、余りにも事実誤認の記事が増えているので、権威が失墜しつつあるなら結構なことだ。ただし権威が失墜するとしてもそれは日本でのことであって世界は英語に支配されているのだから、この現状の中で私たちはもがいてゆかなければならない。
日本への批判には正当なものものあれば、比較すればどこの国にもある問題の場合もあり、不当な批判もあるのだが、アイデンティティは他人が決める。例えばAKB48については私自身批判的なのだが、あれも含めて、「日本人である」私は批判されたり何らかのエクスキュースを出すことを求められたりする。
よくも悪くもそういうものなのである。
私は何が何でも日本の弁明をしているわけではないが、なるべく事実や事情を説明して、誤解や決めつけがないようにはしている。私のその活動を峯岸みなみが足を引っ張ったのは否定しがたい事実である。見た目のインパクトというのは、理非にではなくまず感情に訴えてくるからである。
アメリカ人の有道出人さんはご存じのように数々の外国人差別を糾弾する活動を続けられていて、特に「外国人お断り」の札を批判されているのだが、私自身はそのような札を見たことがない。私が見たことがないからそういうものがない、問題はないということにはならないが、日本中あちこちにそのような注意書きがあるように言う彼はファクトを誇張している面もあるとは思う。そういうものについてどう思うかと言われれば私はもちろんそのような差別はあってはならないと思うし、仮にそうするだけのある程度の合理性があるにしてもこの社会では許容できないと思うし、そうも言っているのだが、言ってみればこの件に関しては有道さん側の立場の私であっても、外部から見れば「日本人」であり、「日本人」として責められたり、批判されたり、エクスキュースを強いられたりすることはある。
有道さんは日本国籍だが、そのような「日本人」としての不利益を共有しているかどうか非常に疑問に思う。彼が他国へ行って、日本社会糾弾の声を上げる時に、彼自身が糾弾される側の「日本人」に含まれているかどうか、そのように他者から扱われているのかどうか、そこに違いがあるならば、「日本人」という縛りから逃れられない私と、場合によっては西洋人や白人という別のカテゴリーに移動し得る彼とは利害が異なるとしかいいようがないのである。
そして峯岸みなみとは、残念ながら、そのような意味においては私は「日本人」としては運命共同体である。
彼女の愚行は、確実に日本に対する心証を害し、偏見を助長させたと言うしかない。それはいろいろな場面で、彼女には何ら関心がないはずの私にも不利益をもたらすのである。
一般論として言うならば恋愛をしたからと言って彼女が謝罪する必要はないと私は思う。あくまでAKB48の内規の問題であって、そこは私には関係がない。
しかし彼女はあのような行動をとることによって私のような関係のない者までをも巻き込んだ。これについて私は彼女を許すつもりはない。