坊っちゃんを読む

坊っちゃんを読んだ。きちんと読んだのは小学生の時以来か。あれ、こんな話だっけと思った。うらなり君とマドンナの恋の逃避行を援けて大暴れする話ではなかったんだ。相当に不器用な人だし、偏ってもいる。頭もたぶん、教師なのがちょっと不思議なほど、なまくらに出来ている。きかんきで頑固な男の子がそのまま大きくなったようで、これで言語能力が劣る、論理的思考能力がないという自らの欠点に無自覚だったら、ただの無鉄砲だ。ただの無鉄砲が筋の通った無鉄砲であるためには、小手先の理屈よりは人の道のようなものからくる直観を信じると言う、坊っちゃんの素朴な倫理意識が必要で、その直感は鋭く、本質的な部分では是非を外していない。
坊っちゃんが青年であるのは事実であるし、彼なりに正義漢であるのも確かなのだが、これを青年らしい正義漢の冒険の話と読んでしまえば、たぶんその切っ先から逃げることになる。もちろん、「そうも」読める。そうも読めるのだが、東京と地方という対比の中で描き出した「普通の人たちの普通の醜さ」、特に都会化によって洗練されずに、そのまま「普通」が温存されてしまっている地方人の醜悪さの問題は、「無鉄砲な青年」の姿を借りて丸められて提出されているわりには、実際には非常に深刻で、漱石が生涯抱えていた問題意識だろう。漱石長塚節の「土」に長々とした解説文を寄せているが、「土」に興味をひかれた漱石と、松山を酷評した漱石は、年代を経ているとは言え、一貫している。
松山の人々の普通の醜悪さ、絶対的な倫理観が欠落している空虚な人生観に対する嫌悪感は、単純に青年期の潔癖というようなものではなくて、「三四郎」で広田先生が言った、日露戦争後にうかれる民衆を見て「滅びるね」と評したような文明批評的な眼差しがある。


松山出身の子規を親友とし、やはり松山出身の虚子に「坊っちゃん」の原稿を委ねた漱石が、「坊っちゃん」の中でここまで悪し様に松山を呪っているのもすごいと言えばすごい。なにしろ松山を不浄の地とまで言い切っている。子規や虚子との関係から言えば、通俗的に言えばこれは友人同士の皮肉の言い合いのようなものとも受け取れ、喜劇的なニュアンスで解釈することも可能だろうし、そうした方が「安全」ではあるだろう。
あれだけ悪し様に言われているのに、松山では「坊っちゃん」を観光資源に利用しているというのも、松山人たちが敢えて喜劇的な解釈をしたことを意味しているのだろう。それこそお若い坊っちゃんが吠えているのをいい大人がむきになって相手にするの大人げない、というような。非常に処世的で通俗的で卑怯で卑劣な対処方法である。それは「坊っちゃん」の言葉に全く向き合っていないばかりではなく、威勢のいい方になびくというような、一個人としての倫理観が欠落した生き方である。坊っちゃんの批判が、ぜんぜん的外れでもなければ青年の感傷的なものでもなく、本質をついていることの傍証だ。
もっとも、その本質を突いた批判まるごと、商業主義に利用しているのだから松山人の通俗性が一枚も二枚も上手というべきか。それとも、どれだけ商業主義で包み込まれようともそれによって坊っちゃんの批判はますます研がれてゆくのだから、坊っちゃんの誠意の方が最後には立っているというべきなのだろうか。