長患い

2ヶ月ほど長患いをしていて、ひと月弱入院していたが、健康だけが取り柄だった私にとっては、人生初めての経験、体が弱ると言うことはこう言うことなのかと気づいたことも多々あった。
入院中は何にしろ寝ているだけなので、どうと言う話もないが、自宅療養かつ日常復帰に向けて体を慣らしていく段階になると、病気のせいと言うよりは、ひと月、結果的に食っちゃ寝の生活をしていた副作用から、心肺機能が大幅に低下していることに驚かされた。
例えば町の通りを歩くにしても、一見平坦に見えても多少のアップダウンはある。今まで気づきもしなかったそのアップダウンに、心肺が悲鳴を上げることで気づかされる、ということがあった。
100メートル歩くにしても、休み休み、途中、ぜーぜー息をしながらでないと歩くこともままならない。
鉄道にも乗ってみたが、エレベーターを塞ぐように立っている人がずいぶん多くて、「声をかければいいじゃないか」という健常者側の論理は、口をきくのもままならない病気もちになってみると、傲慢と言うか、少なくとも想像力に欠けた物言いであるように感じる。
まあ、私の場合は病気そのものは完治してその副作用はおいおいリハビリで治っていくのが分かっているから、今を限りの「なんちゃって」弱者であるが、最近話題になっていたエスカレーターの片側開け問題でも、片側を駆け上る際に脇によけている人にぶつかる、かすかであっても接触する人が随分いて、私の場合は不用意に接触されると激痛が走る病であったので、それで随分、文字通り泣かされた。
絶対に横に立っている人に接触しない、というなら片側駆け上がりもいいとは思うけれども現実にはそうじゃないわけである。「ちょっと接触するぐらい」のその「ちょっと」のことがどれだけ弱者に痛みを与えているのか、そういうことも考えて欲しいと思うわけである。
また、そうした「普通人の無神経」と同じく、「弱者の側の無神経」も感じた。
休み休み歩く今の私は動作が鈍いわけだが、動作が鈍い私にとって駅などでわりあい怖いのは、老人の杖、である。言うまでもないことだが杖は杖であって、それ自体に知覚機能があるわけではない。杖の動きを制御するには、目視確認する必要があるのだが、実際には老人の多くは「弱者である自分が加害者になる可能性」をまったく考慮していないので、「傍らに人が無きが如く」杖を目視確認することもなく、用いている。その結果、他人の足に当たったり、ひどい時は足の甲を踏んだり、実際にはそこまで行かなくてもその危険を避けるために無理な動きをして、怪我をしたこともあった。
何事もそうであるが、私は「ちょっとしたこと/それくらいのこと」の方が始末に負えないと思っている。「大きな被害をもたらすこと」は大きな被害をもたらしかねないがゆえに、注意もしやすいし、当人も避けようとする。しかし、駅の、盲目者用の方向指示タイルの上に立たないで、とか、エレベーターの操作盤を塞いで立たないで、とか、ちょっとした不注意に属するようなことは、ちょっとしたことだけに注意し辛い。注意しても「そんな小さなことで器が小さい」とか怒られたりする。
一事が万事と言う。鉄道の駅でそういう不注意が多い人が家庭生活で、学校や職場で、空港などで、注意深く、一端、他人の利便を考えてみてから自分の言動を制御するはずがない。駅で出来ない人は、学校でも職場でもどこででも誰に対しても出来ないのだ。逆に、どこかで出来る人なら、どこででも出来るのだ。
なぜならばこれは、技術の問題ではなくて、傍若無人になっていないかどうか、考えてみる、意識の問題だからである。
そしてそれは年齢や性別は関係が無い。弱者の中にもそうした「ちょっとした傍若無人な人」はいるのである。