陰謀論を考える

8.5秒バズーカーのネタ、ラッスンゴレライが原爆犠牲者を揶揄している反日の意図があるのではないかと噂されている問題で、モーリー・ロバートソンが書いた「ラッスンゴレライのデマ拡散で考える、なぜ陰謀論で物事を単純化するのか」を読んだが、まったく説得される部分がなかった。
陰謀論と同程度に、あれは陰謀論だよという決めつけだけで証明完了とする態度は、それこそ陰謀論的なのではないのだろうか。
私がこう思うのは、私自身、過去に北朝鮮による拉致犯罪を、それが発覚するまでは陰謀論と考えて北朝鮮在日朝鮮人を批判する勢力を批判してきたという錯誤の経験があるからである。
拉致犯罪について言えば、あれを行うことが北朝鮮の国家利益につながったとは考えにくいし、日本語教育を行う日本人スパイを養成するという一見ありそうな名目でさえ、普通に考えれば、日本語ネイティヴ北朝鮮人や在日朝鮮人も多いことを踏まえれば、わざわざああいう害ばかりあって過激な策を採るとは考えにくい。
私はそう考えたのだが、北朝鮮は実際にそういう損得勘定から言って不合理な策を採っていたわけで、国家にしても組織にしても、ホモソーシャルな社会ではえてして合理的な判断が通用しない、非合理で過激な手段が採用されやすいという傾向的事実がそこにもあったのだ。
何らかの組織が絡む陰謀論では、損得勘定から判断してそれが合理的か否かで、陰謀論の妥当性を判断すると言うやり方では、非合理的なプレイヤーの行動を捉えることは難しい。マキアベッリの言う、「現実主義者が失敗するのは相手も現実主義者だと仮定するからだ」という言葉の実例である。
だがそうした限界を踏まえたうえでも、感情や負の衝動の側面を無視しないにしても、おおむねは少なくとも損得勘定では合理的な行動をとるだろうという前提の下で、根拠を吟味するしか、陰謀論と、何らかの意図を隠すために陰謀論批判を利用しようとする主張の妥当性を考察することは難しい。
ローゼンバーグ夫妻の件にしても、ハリー・デクスター・ホワイトの件にしても、カチンの森の虐殺にしても、当初はあれは陰謀論だと言われながらも後で事実であったことが証明された件は多い。ロバートソンはその事実でさえ恣意的につまみぐいされるとして、「根拠」の「根拠性」をフラットに疑念を提出しているのだが、それ自体はそうだとしても俯瞰的な事実を積み上げていくことによってしか、真実に接近していく以外の手段はないのである。ロバートソンの考察が、実際の一案件に対する考察としては無意味なのは、その作業自体を怠っているからである。