日の丸切り張り事件の何が問題で何が問題でないのか

民主党の鹿児島の支部で、日の丸が切り張りされて、民主党のシンボルロゴに模されていたという出来事だが、私の意見は玄倉川氏のものとほぼ同じである。
http://blog.goo.ne.jp/kurokuragawa/e/fc869bf7d2938da97bb25e37c45eb28e
幻滅を覚えるのはまず第一に「これが問題となるだろうことが理解できない」政治的鈍感さである。
日の丸破って何が悪い!反日上等という積極的な加害意思でもって、やったというならばそれはそれで政治的な主張であるし、個々人の自由である。私はそうした人たちを決して支持はしないだろうが、その自由は擁護する。ただ、仮にそういう意識を民主党が持っているならば、おそらく民主党はここまで支持はされないだろうし、そういうものを持っているならば、はっきり主張として提示すべきである。おそらく国民の大多数は支持しないだろう。主張に対して支持/不支持の選択を有権者に与えるのは公党としては少なくとも道義的には義務であると言える。
問題は、この行為の当事者に積極的な加害意思はなく、日の丸を「赤と白で彩られたちょうど良い素材」として見たことにある。
この種の政治的鈍感さは、イスラム教徒に豚肉料理を出したり、アラーを風刺画で偶像化したり、平和祈念式典でいい間違いをする鈍感さに通じる。
今回のこの件は、国旗と日本国を侮辱する意図が無かったことはほぼ明らかだろうが、悪意なり敵意なりがあるだろうと読まれる可能性をまったく考慮していない鈍感さが問題なのである。
繰り返しておくならば、そうした明確な悪意を政治的主張として行う分には個々人なり団体の政治的自由であるし、私はそうした行為は支持はしないが、その自由は擁護する。
これを物神信仰の一種と見るのは間違いではないが、物は神ではないが、物神信仰は政治的現実であり、個々人の内的な尊厳に大きく関係してくる要素である。
今回これを本当に政治的な問題として捉えない人は、例えば麻生首相のただの言い間違いを式典の「政治的軽視」と飛躍して見るなど、更に言えば別に式典をしたからと言って故人がどうなるものでもないがゆえにただの空虚な遊びと見なすことを批判するような真似は、今後は慎むのであろうと期待する。
政治的・宗教的なアイコンをただの物体と見なしたところで批判される謂れは無いと思うのであれば、いかなる場合でもその基準は貫徹されるべきである。
私はそうは思わないので、これを引き起こした民主党の当事者を批判する。

 麻生首相自民党総裁)は20日、鹿児島、熊本両県の計6か所で街頭演説し、民主党が国旗を切り張りして作った同党党旗を集会で掲げた問題を繰り返し批判した。

 民主党に対する反発を誘い、保守票を呼び戻す狙いがあるようだ。

 首相は演説で、「日の丸をひっちゃぶいて(引き破いて)、二つくっつけた。日の丸をふざけたような形で利用するなんてとんでもないと、もっと怒らにゃいかんのです」などと強調。「我々は真の保守政党。家族、郷土、日本、日の丸をきっちりと守る」と述べた。
http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin2009/news2/20090820-OYT1T01181.htm

とは言え、麻生首相のこの期に及んでのこの発言はまったくもっていただけない。
鳩山代表が陳謝し、岡田幹事長が厳重注意したように、この出来事に悪意はなく、要は鈍感さが引き起こした不注意であるのは明らかで、仮に悪意があったとしても、それは党全体の話ではなく、単にその行為者の個人的な問題だからである。
つまり麻生首相が言っているのは、加害意思を非難しているのではなく、他人の国旗に対するリスペクトの欠落を非難しているのであって、極めて個人的な思想信条を、押し付けようとしているわけである。
これは要するに、例えば誰でもいいが矢沢永吉を尊敬しないとはけしからんと言っているのと同じことであり、それが政治の話ですか?という感想を抱く。