ビル・クリントンの対日外交

最近、1995年のAPEC大阪会合に当時のクリントン米大統領が欠席した経緯、及びその事後が明らかになった。

1995(平成7)年11月に大阪で開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)非公式首脳会合を欠席したクリントン米大統領(当時)が、埋め合わせの訪日について、「学校の試験があるチェルシー(大統領の長女)を残して日本には行けない」として、ゴア副大統領(同)を絶句させていたことが、クリントン氏へのインタビュー記録で分かった。
 ピュリツァー賞受賞ジャーナリスト、テイラー・ブランチ氏が、79回にわたるインタビューをまとめた「ザ・クリントン・テープス」に、APEC大阪会合をめぐるやりとりとして記録されていた。
 クリントン氏は、予算審議の難航でAPECにゴア氏を代理で派遣した。これに対し、ホスト役の村山富市首相(同)ら各国首脳から、「誰だって政治問題を抱えている」として、米大統領の欠席に非難が集中。ゴア氏は帰国後、対日関係修復のため、早期の訪日を大統領に進言した。
 予定表を繰りながらの協議で、12月の年内訪日は、「クリスマス・パーティーが毎晩あるから」として却下された。ゴア氏は年明け早々の1月訪日を提案したが、訪日にはヒラリー夫人(現国務長官)を同伴する必要があるとして、長女の中間試験を理由にゴア氏の提案を退けたという。
 結局、クリントン氏は自ら言い出した96(平成8)年4月の訪日を押し通し、村山内閣の後を受けた橋本龍太郎首相(同)と「日米安保共同宣言」を取りまとめた。
http://sankei.jp.msn.com/world/america/091002/amr0910021007001-n1.htm

他の諸々の事例も見て、クリントン政権に「対日無視」と言うか、意図的な「侮日」の傾向があったのは確かである。
私は日本人だからこういうことをされて愉快であるはずもないが、外交政策的には意図的な侮辱や嫌がらせはあり得るし、そうすべき局面もあるので、どういう意図からクリントンがこうしたのか、その結果、何が生じたのかに関心がある。
比較的、合理的な説明として考えられるのは日米構造協議後の日米関係において、アメリカ側に日本の主に通商政策に強い不満があり、それを伝えるための機会として、これを利用したのではないかということだ。
あるいは、アメリカ南部人の一般的なアジア軽視感情や、クリントン州知事時代に日本経済界に無視されたことに対する個人的な報復という線も考えられる。
それらが複合して表れた、と考えるのが妥当だろうが、その後、別に日米関係が劇的に変化したわけでもないことから、ハラスメント以上の意味は結果的にはもたなかった。
問題は、これがアメリカが主導して(形式的にはオーストラリアが提唱しているが)作ったAPECにおける事例だと言うことで、EAEC構想に代わる案としてAPECが発足したことを考えれば、この地域におけるアメリカのプレゼンスの構築にアメリカは本気なのかどうかが疑われる結果を招いたと言うべきだろう。
事は単に日米関係にとどまらない話である。
言ってみれば、自分の都合にあわせて、みんなの会合をずらさせておきながら、自分はドタキャンするようなもので、失礼・無礼という以上に、これが外交政策であることから、アメリカの本気を各国に疑わせる結果になった。
この後、本格化してゆく中国海軍の南シナ海進出や、東南アジア諸国の対中接近の遠因のひとつになったと見る。
こうしたことがアメリカの外交政策やその利益に合致しないのは明白なので、仮に合理的な意図があったとすればそれは何なのかということになる。
中国のプレゼンスを強めようと言う意思がワシントンにあるのかどうか。
私は単にこれをクリントン個人のキャラクター、個性から生じた不手際であると見るが、ホワイトハウスにあって、大統領に影響力があったはずのヒラリー・クリントンが現在の国務長官であることを考えて、外交政策とその評価がアメリカ政治の中枢で適切になされていない可能性が高い。
中国はある種の国民的鈍感さから外交政策に統御能力が無い。
オーストラリアはその歴史的な国家形成の経緯から外交政策が不安定化する可能性が高い。
それらとはまた違う事情があるにせよ、アメリカにもまた、外交上の不安定さがある。
不安定な要因を中核に据えようとする時点で、日米同盟神聖重視派は非現実的なのである。