鎌倉幕府雑感

日本史は基本的に血腥いものだが、鎌倉時代は特に血腥いと思う。それはおそらく寡頭共和政治的な、鎌倉における東国武士団連合政体という実質を、北条家が中心になって身分制の律令国家という外枠にあてはめるという、無理、をしなければならなかったからだろう。
北条家の権力の実態は権力そのものであり、権威によって補強される程度が少ない。都度都度になされる粛清は徹頭徹尾、北条家、それも得宗家の私戦であるが、近世以後から見てこれがいかに奇異な現象であるのか、徳川幕府にあてはめて考えてみればよく分かる。
大老が将軍の許諾もないまま、老中を誅殺し、何の咎めもないまま当たり前のように元の日常業務に戻ってゆく。私戦禁止は国家権力の権能の最大のものであるが、ここのところの極端な弱体化が鎌倉幕府には見られる。鎌倉の歴史は血の歴史であり、その陰謀、虐殺、謀反の数々は鎌倉時代全体を通底している。
北条時宗が執権就任早々に北条家の本家筋にあたる名越北条家を誅殺しているが、これはおそらく一族内部の合意すら経ておらず、時村流や極楽寺流の北条家はむしろ将軍を利用して事態の先鋭化を阻む役割を果たしたと思われる。比企、三浦、毛利、和田と、誅殺を繰り返してきた北条家であったが、その切先が内部へと向けられるにつれ、得宗家の独裁化と粛清の内部化が避けがたいものになった。
二月騒動にて時宗の異母兄・時輔は突如として失脚し、処刑されているが、その約二十年後に逃亡していた時輔の息子が六波羅で拘束され、拷問を受けた後に殺害されている。この時には時宗は死亡していて貞時の時代になっているが、霜月騒動で安達一族が誅殺され、平頼綱得宗家、ひいては幕府の実権を掌握している頃である。仮にも得宗家の男子を御内人が虐殺していたわけで、このことに貞時がどう関わっていたかどうかは分からないが、得宗家独裁と言っても、その執行手段である御内人の中に、得宗家を絶対視する思想がなかったことが、貞時を恐怖せしめたのだろうと思う。
鎌倉幕府には権威は権力を合理化させるための手段に過ぎず、権威への敬意が非常に薄い傾向がある。官位等を御家人が有難がらなかったわけではないが、権力への欲望は、権威の発給元である朝廷、公方をひたすら手段視させる結果を招いた。
武家政権と言う意味では鎌倉幕府江戸幕府は同じなのだが、どうして江戸幕府はより安定的な権威体系を築けたのか、朝廷の権力性を否認するという意味では江戸幕府も「王の上に王法を置く」路線を踏襲しているのだが、どうして「王の上に王法を置く」主体者である幕府=徳川将軍家の権威を権力を保持しつつ維持できたのかを考えると、織豊政権を経ての元和偃武が単に内戦の終結というにとどまらない、革命的な構造変換を持っていたのだろうとの推測を導き出す。


ところで、鎌倉幕府の成立年はと言えば、1192年以外にはありえないと私は思う。幕府とは征夷大将軍の地位に伴うものだからである。単に名前のみの問題ではない。マトリョーシカのような権力と権威の分化を恒常的にビルトインされた政治体制と言う意味で、公方の権威性を欠くことができないからである。