鎌倉幕府の滅亡

このところずっと鎌倉の武家政権について考えているが、分からないことがある。幕府の終焉が余りにも唐突で、急であることだ。足利高氏大覚寺統に寝返ってからひと月もしないうちに、六波羅の滅亡、千早城攻めの幕府軍の崩壊、新田義貞の挙兵と矢継ぎ早に事が置き、ついには鎌倉での北条家滅亡を迎えた。この間、わずか二十三日に過ぎない。
これが数年間栄華を極めた程度の平氏の滅亡ならばともかく、幕府は百五十年に及んで東国はもちろん西国をも軍政下においていたわけで、起きてしまったことだからそういうものかと受け入れられているが、これがいかに異常なことなのか、改めて考えればほとんどあり得ないことと思われる。
朝廷を向こうに回して、つまり権威を向こうに回して敵対した経験が北条家にないならばともかく、承久の乱は言うに及ばず、鎌倉内部でも将軍との相克を制して何度も死線をくぐってきたわけで、ホームグラウンドの東国でさえ、ああもあっさりと新田ごときに蹂躙されるなど、異常と言うしかない脆弱さである。
もちろん高氏(後の尊氏)の寝返りと、それに伴う六波羅軍の消失は大打撃を与えたであろうが、普通に考えればそれとてもせいぜいが、京都政権と日本を二分して内乱が続く程度の打撃であり、北条家滅亡の不思議は、なぜ東国をあそこまで脆弱にしか北条家は把握しきれていなかったのかという点にある。
ほんの数十騎しか通常は動員力を持たない新田義貞に、続々と加勢がかけつけて、ついには鎌倉を包囲するに至った。これはつまり、東国においてこそ、北条家の権力が弱体化していたからに他ならない。
鎌倉包囲の時点でも、北条家の軍勢の方が人数としては多く、しかもあの堅牢な町で防衛網を作っておきながら結局破れている。これは、北条家の統率が弱体化していたため、幕府上層部の北条家の面々が手勢すら寝返るのではないかと信用しきれなかったことを意味している。事実、得宗家の守護の国々でさえ新田に加勢しているのであり、手足を失った状態に北条家はあった。
武士は一所懸命であり、土地、領民、軍馬が一体になっている。鎌倉時代を通して、北条家が行った御家人粛清の手法は、その一体性を断ち切るというやりかたであり、戦場は常に鎌倉内部であった。
鎌倉の町を歩けばいかに粛清跡が多いのかが分かる。御家人は鎌倉地生えの武家ではなく、鎌倉にはわずかな手勢と共に政治のために居住しているに過ぎない。北条家は常にその孤立した相手を狙って粛清を仕掛けているのであって、そのため戦場は常に鎌倉でなければならなかった。鎌倉はつまり、防衛のために堅牢であるのではなく、隔離するために堅牢なのであった。
皮肉にも、北条家は権力闘争に勝利し続けたため、鎌倉に常駐することになり、手足となる土地、領民との一体性を失った。そういうことではないかと考えている。守護国をいくら増やしたと言ってもそれは紙の上での主従関係であるに過ぎず、御恩と奉公の関係がそこで築かれるわけではない。
鎌倉幕府の滅亡は、この国で頻繁に見られる社団支配層の問題として捉えることが出来る。
例えば郵政改革の際、小泉純一郎には独裁的な手法が見られたが、彼を独裁者と批判する特権勢力そのものが更に外部の非既得権層によって叩き潰された。鎌倉幕府はその中心的な権力集団がウチへウチへと向かった。時宗の時に瞬間的に成立した得宗専制体制が長続きできなかったからこそ、特権勢力を排除できなかったのである。
東国武士団によって、東国武士団の上に次第次第に形成されてきた特権勢力を排除しようとした動きが、鎌倉幕府の滅亡であって、これは反幕府や反北条得宗家ですらなく、得宗家周辺の一門衆や御内人による権益の独占に対するプロテストであった。朝廷勢力はその過程で利用されたに過ぎない。
時宗期以後、鎌倉幕府お家芸とも言える内部粛清は対象者を一門や御内人に移した。これはつまり、プレイヤーとして一般御家人が決定的に重要性を失ったことを意味している。
北条家と幕府の滅亡はさまざまな教訓を与えてくれる。