鎌倉の墓所

島津重豪蘭癖大名の代表格で、孫の斉彬をして広く世界に目を向けさせると同時に、諸々の奢侈のため藩財政を傾かせた。政治家としての評価は難しいが、薩摩が幕末に活躍する種を巻いた人とも言えるだろう。
ただしこの人自身、それ以前の積み重ねの上にいる。島津家は婚姻関係においても閉鎖的で、いくつかの例外的な関係を除いて、婚姻も可能な限り一族内で行おうとした。血族内での結婚は財産が保全されると同時に、カネがかからず、なおかつ情報が統制できるなど、利点が多い。しかし島津と言えども徳川将軍家に仕える大名であるわけで、浮世の義理や諸々から、外部に向けて閨閥を広げねばならなかったこともある。
徳川綱吉の養女・竹姫を島津継豊の継室に迎えて以後、島津家は将軍家との強力な縁戚関係を手に入れた。島津重豪は竹姫との縁から、一橋宗伊の娘・保姫を正室に迎えている。
一橋家は治斉が継ぎ、一橋治斉は重豪の義弟ということになる。これが更に縁となって、治斉の嫡子・豊千代と、重豪の娘・篤姫が婚約、後に豊千代が将軍家に継嗣として迎えられ、篤姫を御台所に迎え、将軍家を継ぐと同時に、島津重豪は将軍家の外戚の立場に立つことになった。
将軍・家斉と正室・広大院の夫婦仲は良く、子も幾人か設けている(これは徳川将軍家としては異例である)。広大院の父・重豪もそれ相応の影響力を大奥を通して将軍家に持っていたと見るべきだろう。島津重豪の豪放磊落な生き方を可能になさしめた外的環境の一端を、自身と娘を通しての閨閥が担ったのである。


鎌倉時代の最初期に大蔵御所があった場所には、現在、私立学校が建っている。その背後に大倉山があり、源頼朝墓所がそこにある。鎌倉が現在のような形に整備されたのは主に明治になってからのことで、頼朝墓所も長らく打ち捨てられていた。これを整備したのが島津重豪である。頼朝墓所奥からの崖道を奥へ進めば、島津忠久大江広元毛利季光の三公墓所へと続いている(但しこれは象徴的な墓所であって実際の墓がそこにあるわけではない)。頼朝墓所と三公墓所はもともと別の施設であるが、崖道でつながっているために、結果として、三公墓所が頼朝墓所を「見下ろす」形になっている。
島津重豪が頼朝墓所島津忠久墓所を整備したのは、頼朝とその落胤とされる島津忠久が島津家の祖先にあたる(とされている)からである。それを敢えて声高に主張するかのような、頼朝墓所整備は、徳川時代にあっては常識的に考えて政治的にかなり危険な行為であっただろう。
頼朝の系統がもともと、清和源氏嫡流であり、それが絶えたとされるから他系がそれぞれ嫡流を主張できるのである。徳川将軍家は新田氏に祖先を求め、その血統を根拠として源氏長者征夷大将軍を占有していた。頼朝の男系子孫であるという島津家の主張は、徳川将軍家の権威に挑戦するかのような潜在的な危険を孕んでいる。
主張は主張として、それを華やかに喧伝するかのような頼朝墓所整備は、明らかに政治的デモンストレーションであり、島津重豪が将軍家の外戚であるがゆえのアンタッチャブル性を持っていたという前提があればこそ、それが可能になったと見るべきだろう。
大江広元毛利季光墓所の整備は、毛利家が行っている。三公墓所は結果的に三公の墓が並んでいるが、元は別途の施設であり、三浦一族の墓所跡から続いている。
大江広元、その子の毛利季光、季光の妻の実家の三浦一族は安芸毛利家の直系の祖先であって、島津家は毛利家とも縁戚関係があった。結果的に薩長の祖先が並んでいるわけだが、徳川時代の極盛期にあって、将軍家や織豊体制に依存しない外様大名二家の家系誇示がこの墓所整備には意味として込められていて、幕末の動乱へと至る精神的な萌芽がそこに認められる。
将軍家の祖先とされる新田氏にまで遡ったとしても、頼朝の落胤や、頼朝の最側近の家系と比較すれば、いかほどのものでもないわけで、鎌倉時代の最初期にまで遡ることで、徳川将軍家はもちろん、織豊両家や室町将軍家すらも凌駕する家系的権威を島津と毛利は主張できるわけである。まして他大名家など、比較的毛並みが好い細川家ですら足利家の支流に過ぎぬわけで、「系図が本物であるならば」島津と毛利の二家の優越性は抜きん出ている。
頼朝墓所と三公墓所は重豪の時期に整備されたのであって、それを見ても鎌倉時代のなんらかをうかがう手だてにはならないが、江戸時代後期の権威を巡る政治的闘争の影はうかがえるのである。
将軍家や頼朝以後の武家的権威からの精神的自立の一環として、この墓所域は精神的遺産としてあるのである。