置き去りの八重

正直言って面白くない。題材としては好きなので、なるべく良いところを探したいのだが、大河ドラマ「八重の桜」は今のところ、見るのが苦痛だ。女が主人公の大河ドラマは、どうしても、歴史の主役級の人物が多くなるため、脇の話でだれがちになってしまう。しかしそれなりに、今までの大河では工夫はあった。
「江」では無理やりに主役級の人物を主人公に絡めていた。
篤姫」では主人公の分身ともいうべき性格を小松帯刀に与え、主人公近辺の小さな物語と歴史のうねりというような大きな物語が絡み合うようになっていた。
功名が辻」も夫を早く登場させれば、夫自体は織田家・豊臣家の中枢を生きた人物なので、主人公の物語と歴史の主流が乖離することなく描くのは容易であった。
利家とまつ」も同様であって、芳春院自身、主役級の人物であるから、ネタには困らなかったはずだ。
考えてみると、新島八重の生涯を描くというのは、かなり難しい。
八重自身は明治になるまで、会津から出たことがない訳で、会津戦争までの彼女の人生を描こうとすれば、基本、「遠くにいる誰かを心配する(しかし自分は動かない)」という一番つまらないホームドラマ路線になってしまうだろう。八重が動けないので、歴史に絡む役目は兄の山本覚馬が前半の事実上の主役として動かざるを得ないわけだが、そうなると主役であるはずの八重パートが邪魔だ。
しかも動いたとしても、覚馬は薩長土肥の維新の志士のように、組織を利用してもスタンスにおいては個人として立ち向かった人物ではなく、機密に直に触れ、自身の判断において歴史を動かすような組織の高位者でもなく、卓見の士であっても基本的には流されているだけである。
篤姫」では主役自身が将軍家御台所という機密に近いところにいたこと、義父が島津斉彬であること、分身的な存在である小松帯刀薩摩藩首脳であることなどから、歴史の流れと個人の営みが無理なく絡み合っていた。
では思い切って、八重が名実ともに主役を張れる舞台である会津戦争から話を始めるというのも手であるが、なにぶん幕末における会津の動きと強いられた立場は非常に込み入っていて、そこへ到る事情を描かないというわけにはいかない。
結果として、物語の本筋は主人公から遠く離れて、主人公は日本史になんら関わりなく、木に登ってはきゃっきゃし、川魚を取ってはきゃっきゃし、鉄砲を撃ってはきゃっきゃし、時々、お父さんに叱られ、遠くにいる兄さまを心配するという、物語に何らからむことなく、おそらく突如としてジャンヌダルクになるのであろう。
篤姫」も「利家とまつ」も実に噴飯ものの大河ドラマであった。好きか嫌いかで言えば嫌いであるし、憎んでさえいる。
しかし面白かった。
ドラマは面白くないとどうしようもないのである。
私はなおも、今年の大河を真綿でくるむような愛おしむ眼差しで見るであろう。それは会津への愛のようなものがあるからである。ドラマとして、どうこうと言う話ではない。ドラマとしてどうこうと言う話であっても、なおも優しげでいられるならば、この話がそのようなものにこれから先なるというならば、その時には多少は報われた、ということになるのだろう。