靖国参拝に関する私見(まとめ)

[公式参拝の是非]
首相もしくは政府を部分的にであれ代表する立場にある人物(これは中立性が厳密に求められる行政府と司法府に限られるべきだろう)がどのような宗教施設であれ「公式参拝」するのは容認できない。これはもちろん政教分離の原則からである。ただしこれは、例えば首相が、外交や儀礼、観光において「非宗教的な文脈」で宗教施設を訪問することまでも否定しているのではない。


[公式参拝の外形、三木四原則の評価]
公式参拝は違法なのだから、合法的な参拝はすべて私的参拝である。その境界は、実際的には「宗教的な目的での参拝において、宗教的な祭祀に公費の負担があるかどうか」のみにある。私的参拝・公式参拝の区分が問題になった三木内閣では当時の三木首相が私的参拝であるための四原則の基準を打ち出している。
・玉ぐし料は公費にて出費しない
・公用車を用いない
・公的な肩書を用いない
・公務の随行者を伴わない
この四原則を厳守すれば確かに公私の区別がはっきりとつくが、これは三木首相個人の私的な規範に過ぎず、公的な法規となり得る余地はない。何故ならば、首相職における公私の境目は、実際には公的な要請による私的な領域への侵食と言う形で曖昧になるのであり、その逆ではないからである。
首相職が何時から何時までで、というようには区分できない以上、首相職に伴う公的な必要から首相職にある個人の私的な領域への要請は24時間すべてに及ぶ。これを首相は24時間体制、私的な側面などない、と言うのは根性論と言うもので、もちろんいかなる人間であろうとも私的な領域は存在するし、それは保持されなければならない。
この観点から言えば、公務の必要や安全の確保から言えば、首相はいかなる時でも移動では公用車を用いるのが望ましい、それが公的な要請である。そして首相職の遂行にあって、首相職を遂行中の公的な人格と、私的な人格は、首相職の執務時間が24時間に及ぶため、厳密な分離は出来ない。そのため、私的な領域に公的な要請が入り込まざるを得ない。つまり、首相職にある個人が靖国参拝をする際に公用車を用いたとしても、それは私的な事柄に公的な費用を濫用しているのではなく、本来、パブリックが入り込むことを許されない私的な領域に、首相職の必要から公(おおやけ)がお願いして、公用車の利用を首相職にある個人に半ば強制していると見るべきである。
これは首相公邸の利用に置き換えてみればはっきりするだろう。
現在、安倍首相は首相公邸を利用していないが、この不覚悟を野党の民主党は批判している。危機管理の上からも、情報統制の反射神経の確保のためからも、言うまでもなく首相は公邸に居住するのが望ましいしそれが公的な要請でもある。では首相公邸に居住する首相に私的な領域が一切あってはならないのかどうか、例えば首相が公邸に仏壇を置くことが許されるのかどうかを考えてみればいい。
首相も人間であるから私的な信教の自由は当然あり、居住地が公邸だからと言って、私的な領域においてそれが制限を受けることはない。首相が公邸に住むのは、政府側の必要と要請であって、その公的な必要から私的な領域を侵食することを政府と国家はお願いしている立場である。そのことを逆にとってはならない。
この大前提を踏まえれば、
・公用車を用いない
・公務の随行者を伴わない
の二点はまったくもって公的参拝と私的参拝を分ける理由にはならないことが理解できるだろう。
・公的な肩書を用いない
は、これはそうした方が望ましい、とは言える。敢えて、内閣総理大臣、と記帳した安倍晋三に、純粋に私的参拝の私人性を守ろうとした意図が無かった、むしろ私人性を盾にして実際には「限りなく公的参拝に近く見せたい」という意図、敢えて言うならば邪な本心があっただろうと推測することは容易だ。推測だけで言うならばこれまでの数々の言動から照らし合わせてみても、安倍晋三にこの参拝に公的な性格の装飾を加える意図があったことは自明だと思う。しかしその内心の憶測がいかに限りなく黒に近いとは言え、それと実際に黒であることはまったく違うのである。
内閣総理大臣という職務に実際にある個人が「公務以外」の場面でその肩書を用いることがあっていいのかどうかという話である。社会慣行上では実際にはよくある話である。例えば冠婚葬祭で純粋に「公務」でなくても肩書を書くことはよくある。それとどう違うのか、明確に法的な基準を示せと言われれば案外難しい。
これについては、私的な場面では公職の肩書を示さない方が望ましいが紹介の意味で示したからと言ってそれが公権力の利用にはならないと解釈するしかない。
結果的に、三木個人の基準ではなく法的な客観性がある靖国参拝の公私を分ける基準として有効なのは、玉ぐし料の公費負担云々の部分だけであって、これについては安倍晋三は玉ぐし料を私的負担しているので、外形的には今回の安倍晋三靖国参拝は彼個人の私的参拝であるというしかないのである。


[靖国参拝批判は内政干渉か]
私個人は首相の参拝が公式参拝であったとしても、外国からの批判は内政干渉にあたると考えるが、敗戦に伴う条約を日本が受諾している以上、そのレジーム維持を要求する権利が戦勝国にあるとすれば(そうであったとしても韓国には何の権利もないが)、一概には内政干渉にはあたらないという理屈もある。そんなのは条文にすらない解釈に過ぎず、そもそも靖国参拝がどのような意味を持っているかについては解釈以上の根拠が示されていないので、言いがかりに過ぎない話だと私が考えているが、今回の件に限ってはこれはそういう話ですらないのである。
何故ならば、安倍晋三の参拝は彼個人の私的な参拝に過ぎず、徹頭徹尾、日本国は無関係だからである。彼の靖国参拝は「内政」ではなく、従って諸外国が何を言おうとも内政干渉ではない。内政干渉ですらない、と言うべきだろう。安倍晋三個人の信教の自由、思想信条の自由に対する外国の公権力による干渉であって、言うまでもなく日本国憲法はこの内心の自由を擁護していて、単に日本国憲法のみならず、基本的人権の土台をなしている。
憲法の要請から、安倍晋三個人の思想信条に対する評価は別にして、日本国は彼の行為の自由を擁護する以外の選択肢はなく、論理的一貫性から言えば、護憲派といわれる人々も同様の論理的義務を負っている。
中国韓国をはじめとするこれを批判する諸外国がいかにリベラルの名に値しない実態を持っているかの表れである。