自衛論と男女のコスト

性暴力加害者の心理-キリンが逆立ちしたピアス
こちらの記事は、性犯罪者(自称)が語ったこちらの記事の反応に対して、法治的には犯罪者が徹頭徹尾悪いのであって、自衛のコストを被害者に押し付けようとする傾向、何故か性犯罪のそれも女性被害者に対してのみそういうことが言われ易いのだが、とにかくそう言う傾向があるので敢えて念押しした、したということだろう。本心においては、この手の、しかも犯罪者の自分語りについてまで、いちいち目くじらをたてているわけではないだろう。
ただし、法律的にはともかく、社会政策的に言えば、自衛がまったく求められないわけではない。自衛は求められるか求められないかの二項で分けられるものではなく、費用対効果として程度としては求められるものである。あなたは本当に今まで一度もインフルエンザが流行しているからマスクをしましょう、うがいをしましょう、予防ワクチンを接種しましょうと公立学校や病院を含む政府機関から一度も求められたことがないのだろうか。それを求めることは、インフルエンザ患者を責めること、もっと言えばセカンドレイプすることにつながるのだろうか。
政府はすべての状況をコントロールできるわけではない。単にコントロール出来ないというだけではなく、積極的に状況に抗う、秩序を破壊しようと行動することにおいては病気も犯罪も同様である。政府にできるのは、持てるものを注ぎ込んで、リスクを減らしていく、発生頻度を減らしていくことだけである。そうであっても発生は決してゼロにはならない。
この大前提において、自衛はゼロかすべてかではなく、ある程度は要求されていて、それがどの程度かによって政府が注ぎ込むコスト、つまり国民の税負担に直結している。この意味においては、自衛を怠る者に、他者のコスト負担を増大せしめるという意味で加害者性は発生するのである。
ただしこれは性犯罪だけではなく、あらゆる犯罪、病気、災害についても言える。
例えば、過日の大震災での津波では、膨大な救出・復興費用が費やされているが、長野県に住んでいればほぼ確実に津波被害には遭わないのだから、わざわざああいう震源地に近いところで沿岸部に居住する責任、これは自己責任という意味ではなくそれによって発生する他者の負担を増大させるという加害者責任が東北沿岸部の居住者にまったく無いわけではない。
別にこれを以て、「被害者」の加害者責任を問えと主張したいわけではない。ただそこに、負担を増大させる要素が発生しているのかどうかを見れば、自衛を程度として怠ればそれは社会負担を増大させることにつながっているというポイントを指摘しているのである。
先述したように、性犯罪はなぜなのか、特にこの自衛責任を問われやすい犯罪被害である。ありとあらゆる犯罪や災害においてこの種の「被害者の社会コストに対するコスト増大化責任」は発生しているのに、それらについては言及されずに性犯罪のみがそのように言われやすい。津波によって被災した人が別の場面では性犯罪被害者を自衛責任の観点から非難していたり、というねじれと言うか、ただ他人の責のみを問うようなことも現実には発生している。
そのようなことがあるから、敢えて、「性犯罪で悪いのは加害者であって被害者ではない」という法律論的には明白なことを何度も繰り返す必要があるのだ。しかし私は視点を変えて、つまり法律論的にではなく社会コストという観点から、犯罪の発生原因は加害者・被害者双方にあるという、程度的にはこれもまた「当たり前」のことを指摘しなければならない。
法律論的な側面と社会政策的な側面の対立する「当たり前」がどちらも実際に当然のことでありながらぶつかるために、真理とは程遠い、政治的なプロレスで終始してしまうのではないか。
犯罪はどう抑制されるか、犯罪に対する諸々のプレッシャー、報復措置の増大に反比例して犯罪は減少してゆくと一応、全体の傾向は見られる。財布を駅の雑踏のどこかに放置しておけば窃盗を引き起こしやすい。そういう状態でも財布を盗む人が法律的には悪いのであるが、被害者の側に因果関係上の過失が無いとは言えない。だから財布をしまっておきましょう、程度の自衛は、社会コストを削減する意味からも常識的に求められるのだ。
犯罪に対するプレッシャーとしては複数のものがあり得るが、刑罰の厳罰化もある程度はそうかも知れない。警察の人員を増やして、検挙能力を増やすこともそうかも知れない。あるいは教育や宗教によって犯罪を抑制する、その心理的な負荷もまたプレッシャーとなり得る。ただし、直接的な犯罪抑止としては警察の能力、要員数の増大が関係していると考えるのが妥当であり、その適性値は税的負担と市民が求める治安水準とのかけひきによって決定される。
仮に現在の犯罪発生率、特に性犯罪の発生率を仮に10%だとして、まあまあそれで市民が「この程度ならば許容できる」と考えているとしよう。犯罪は決してゼロにはならないのだから適性値とは「どれだけ許容できるか」の水準と同義になる。もちろんその水準を下げるためには税的負担の投入が増大するし、同じ額を投入しても犯罪発生率が低くなればなるほど費用対効果は下がってゆく。
犯罪の被害者を男性と女性に分けて、平均で発生率が10%ということは、実際には女性の方が被害者になりやすいのだから、例えば女性は発生率が15%で「満足としなければならない」、男性は表向き発生率が10%でも実際には5%の環境を「享受している」ということになる。
こういう現象、事情は確かに発生しているはずだが、この現象はふたつの「どちらも妥当性のある尺度」で測られることが出来、まったく逆の「あるべき結論」を導き出す。
男女で同じ社会コストを負担しているとすれば、犯罪、特に性犯罪に限っては、コストから得られる効果が男女ではまったく違うと言う現実があるだろう。同じ税負担でも、女性の方が得られるパフォーマンスが小さい、これは女性のみが不利であるゆえに、男女差別的であるということは可能であるかも知れない。
しかしまったく逆のことも言える。男性が享受している犯罪被害者となる確率が5%ではなく、女性が甘受している15%という水準でそれが費用対効果上適性であると考えるのであれば、男性は必要なコスト投入以上の税負担を強いられていることになる。男性の犯罪被害率が15%になれば女性は25%とかそれ以上の被害率になり、容認できる水準ではなくなるだろう。つまり、女性の犯罪被害率を引き下げるために、男性は自分にとっては不要なコスト負担を押し付けられているのであって、負担費用と言う側面から言えばこれは女性による男性の一方的な搾取である。
女性が犯罪においても、他の多くの場面でも被害者、弱者になりやすいのは犯罪者からすれば制圧コストが対男性よりも少なくて済むからであって、自衛力の過小さが犯罪を誘発している、それによって社会コストが税負担と言う側面から見れば増大しているという面がある。
ともかくこの側面が事実としてあるから、ことさらフェミニストは「性犯罪で悪いのは加害者であって被害者ではない」と法律論的のみの因果関係を繰り返さなければならないのである。法律論以外の他の側面から考慮されれば、被害者の加害者性、というものが存在しないとは言い切れないからである。
さて、こう言う場面において、「お互い様」「助け合いましょう」的なギヴアンドテイク論が出てくることがあるがそれは果たして妥当なのかどうかということを後日、続きで考えてみる。