天は人の上に人を作らず

米南部、異人種間の結婚認めず 「差別」と反発

米南部ルイジアナ州で、白人と黒人のカップルから結婚証明書の発行を求められた治安判事が「異人種間の結婚では子どもが不幸になる」として証明書発行を拒否し「時代錯誤の人種差別だ」などと物議を醸している。米メディアが16日報じた。

 報道によると、恋人の黒人男性(32)と結婚を予定している同州の白人女性(30)が6日、証明書取得の手続きを問い合わせるため治安判事に電話したところ、応対した判事の妻が、異人種間の結婚なら判事は証明書を出さない、と告げた。

 判事は地元メディアなどに対し、黒人と白人の結婚は長続きせず、子どもは黒人社会にも白人社会にも受け入れられにくいと述べ「子どもにつらい思いをさせないため」異人種間の結婚式は執り行わないと説明。「人種差別ではない」と主張した。過去にも異人種間の結婚手続きを拒否したことがあるという。

 女性は「人種差別はこの件に限らず、現実として存在している」と語り、司法省に対し人種差別の申し立てを検討中。有力人権団体、全米市民自由連合の幹部は「悲劇的で違法な行為だ」と非難した。
http://www.47news.jp/CN/200910/CN2009101701000227.html

これはニュースになっているくらいだから、ルイジアナ州でも滅多に無い事件であることは明らかだ。ただし、この事件に見られる発想そのものは、一般に見られるのだろう。
差別慣行を正当化したい時に、子供をだしにするのはありがちな手法である。
そしてその手法は、差別的な現実を基盤にしているのは間違いない。
インターレイシャルな環境に生まれた子供が、コミュニティ帰属においてアイデンティティの危機に陥りがちなのは傾向的な事実ではある。しかしそうした差別的な環境は、「子供が可哀想」と子供をだしにするような人たちが強化しているのだ。
母子家庭の子が諸々のハンディキャップを被っているのも傾向的な事実である。しかしそれらは、母子家庭やその家庭の子を「可哀想」と見下すことによって強化されている。
母子家庭の子が仮に可哀想であるならば、たとえば専業主婦世帯への課税を強化して、母子家庭への福祉を拡充するなど、「可哀想ではない環境」へと改善してゆけばいいのだ。
しかし、子供が可哀想と「子供をダシにする」人たちの思考は、そういう方向には向かわない。
差別を強化し、排除を強化して、その存在そのものを抹殺してゆく、排除の論理の強化へと向かう。
まさにそういう人たちの存在こそが、子供を不幸にしている最大の原因である。


しかし今日、私が述べたいのはそういうことではない。
人権はホビットの指輪に似ている。それを手に入れれば世界を手に入れられる。
この事件の判事のように、レイシストで排斥者であるような人物でさえ、「子供が可哀想」と言うような、人権にあたかも配慮している、根底には人権意識から発しているかのように振る舞えば、擬似的な正当化は可能になる。
人権の錦の御旗、正義はそれほどの危険を秘めている。
中でも、特に武器として強力なのが「子供の人権」である。
ここで前提を改めて整理しておこう。
人の命や基本的人権が、平等なものである、平等であるべきならば、子供の人権のみをフォーカスするのは、本来、この平等思想に反するのだ。
仮に、私がタイタニックに乗船していたとして、救命ボートの座席を、女性や子供に譲る気はまったくない。なぜならば、人は命において平等であるべきだと信じるからである。
正直に言って、おそらくその場になれば子供には譲るかも知れない。未来の重さにおいて、老いた者よりは子供が優先されてしかるべきだと思うからだ。しかしそれは私個人の自由意志によってそうするのであり、それが正義だからするのではない。その行為はもっと損得勘定意識から生じるだろう。
だから(私から見て)優れた子と、そうではない子がいれば、選択に迷うことはないだろう。
子供の人権が強調される必要があるのは、子供が無力であり、保護を必要とするからであって、平等を実現するためには、社会的な補正によって底上げが必要だからだ。
子供の人権が大人の人権よりも正義として価値があるからではない。
そこのところがどうも、徹底されて意識されていないと感じる。基本的人権が平等であるならば、子供の人権を正義として優先することは不正義なのだと言うことが、どうも理解されていないように思える。


私が親権に否定的なのは、主にふたつの理由からなる。
子は親を選べないから、一定数の子は、本来、生育環境としては相応しくない人物によって育てられることになる。ここで言う生育環境とは、社会的な文脈によって生じるものではなく、保護者個人の資質的な問題である。
「単に生まれによって致命的な阻害が生じる」ことを社会が是と見なしているのは、法の支配を基盤に置いた法の下の平等に論理的に反している。
もうひとつは、親は子を選べないからである。
不幸にして生涯に及ぶ重度の障害を持って生まれる子は必ずいて、その介護の負担は主に親権者が負っている。中には、親子関係を破棄して自由になりたいと望む者もいるだろう。
私はその欲求は容認されるべきだと思う。親子とは言え、一個の個人が別の個人を生涯にわたって束縛することは、本来、許されるべきではないからである。
私たちの社会がそうした障害者や要介護者にも基本的人権を認めているのだから、それを保障するのは社会の責任である。個人である親の責任ではない。


子供の人権を、単に弱者であるから是正するという意味合いを越えて、子供の人権そのものに(あるいは親子関係における子としての位置に)、優位を認める考えは、他者の人権を抑圧する原因になっている。
端的な一例は児童ポルノの規制である。
性的マイノリティという意味においては、ペドフィリアは、ホモセクシュアルなどと同様のものである。性犯罪が問題なのであって、性的嗜好そのものは、正義でもなければ不正義でもない。
しかしペドフィリア性癖そのものを断罪する傾向があり、それは意味としては、ホモセクシュアル刑事罰として裁くような意識とまったく同じものなのだが、その差別性が「子供の人権」を錦の御旗にすることで覆い隠されている。
ルイジアナの事件とまったく同様の状況がそこにはある。
差別者が「子供の人権」をたてにとることで、自らの差別性を覆い隠しあたかも正義であるかのように振る舞っているのである。
このような社会において、人の平等を信じる者は、正義としての「子供の人権」を否定しなければならない。
正義としての「子供の人権」を言う者はことごとく差別者である。