大国の限界

新たに大国が勃興する場合は、大抵の場合はその時点での地理的な辺境から勃興することが多い。国の成り立ちから連邦制の性格が強かったドイツにおいて、ウィーン、ベルリンという二大首都が、いずれも「辺境伯爵領」から発展していることは理由がないことではない。
基本的には新興国の興隆は、既得権益層、停滞諸国、いずれにとっても脅威であるわけで、出る杭は必ず打たれる。中小国から大国、大国から超大国への発展に際しては、必ず国際的な包囲網が敷かれることになる。
それを乗り越えるには、どうすれば良いのかと言えば、最大の方策は目立たないことである。地理的に辺境にあれば、既存の大国にとっては「主敵」になりにくく、第二位、第三位の敵にはなっても、第一位の敵にはなりにくい。また、既存の大国との間で、共通の第一位の敵を持つこと、つまり現状維持勢力として振る舞うことである。
先日、ウクライナを巡る記事において、はてなブックマークのコメントが概ねウクライナに対して厳しい姿勢であったのに対して、ある人が日本の保守がロシアに対しては割合、融和的な態度であることをプーチンに洗脳されている、みたいな決めつけを行っていたが、ロシアが基本的には信用のおけない隣人であったとしても、日本にとっては第一位の敵ではないし、ロシアにとっても日本は第一位の敵ではない。マキャベッリの言う、「リアリストの間では、互いにエゴイスティックであっても妥協、すなわち平和維持が可能」の実例であって、外交政策に興味のある保守派の多くが、戦術的にではなく戦略的に発想していることの現れであると思う。
ウクライナジョージアグルジア)は、まさしく私が国を示すのにジョージアグルジア)という厄介な書き方をしなければならないように、国際的にエントロピーを増大させる愚かな振る舞いしかしていない。アメリカや西欧諸国は愚か者と付き合うべきではないのである。介入さえしなければ単にそれらの国の無力さと言う妥当な評価基準から、最終的には親ロシア政権に収まるであろうし、そうなればロシアが介入する必要もなくなるわけだから、それらの地域ははるかに安定して発展してゆけるだろう。
新東欧圏におけるロシアの行為はエントロピーを減少させているという意味において、肯定されるべきであるし、この地域に介入の姿勢を見せている西欧諸国、特にドイツは相変わらずの外交戦略音痴ぶりを示している。ドイツは基本的には過去の失敗から学べない国である。そういう意味ではアメリカと似ている側面があるが、そもそもアメリカのそうした盲目的な要素は、アメリカ最大のエスニック集団であったドイツ系移民によってもたらされたのではないだろうか。
七年戦争は、辺境に位置する、大国の主敵にならないように振る舞う、この二点において慎重に振る舞っていた新興国が、ついには列強として脱皮を果たすために戦争と言う大危機を乗り越えた事例である。この戦争は二つの新興国アメリカとプロイセンの列強化をもたらした。それは結果論であって、その結果に至る前に両国とも存亡の瀬戸際まで追い込まれ、それを乗り越えなければならなかった。アメリカとドイツ(プロイセン)はこの点においてもそもそも相似的なのである。
プロイセンの危機の方がより苛烈であり、その凌ぎ方はより劇的であったのだが、その後、アメリカは順当に覇権国家に成長し、ドイツはその過程で二度の世界大戦に敗れるという失敗に陥ったのはなぜだろうか。
基本的にはやはり、アメリカの方がより地理的に辺境だったから、と考えるべきで、アメリカは早い段階で、欧州情勢への不介入、逆にアメリカ諸国に対する欧州諸国の介入排除の姿勢を見せた。モンロー主義である。これは孤立主義政策として、現在は特にリベラル派からは評判が悪い政策なのだが、「戦略的利害を明確化して、それを妥協可能な水準にとどめておくことによって、エントロピーを減少させる」という意味において、おそらくはアメリカが採った唯一の理性的で合理的な外交方針であった。
アメリカ大陸でのことは、欧州列強にとっては権益には関わっても生存には関わってこない問題であって、妥協が可能なマターに過ぎない。ドイツが位置するヨーロッパ大陸中央でのことは生存に関わるマターになる。この差が、アメリカに覇権国へと至る猶予を与え、ドイツには与えなかった根本的な理由であると思う。
そもそも能力が無ければ大国化には至らないが、そうした一般的な能力を除外して言えば、アメリカが覇権国家に至ったのは基本的には運、だった。同じアメリカ大陸でもどうしてアメリカ合衆国覇権国家化して中南米は失敗国家ばかりになったのかについては、アメリカの文化の中軸が「入植者」にあって、中南米の文化の中軸が「移民」にあるせいではないかとも思うのだが、それはまた別のテーマになる。
1812年の米英戦争があったにしても、覇権国家の移行が、英国からアメリカへと比較的穏健に進んだことについては、英国側の自制によるところが大きい。被従属化させられないと見ると、英国はアメリカに対して「関係を維持してゆく」ことを至上命題として維持した。
英国人の持つ戦略眼の確かさは、実際凄まじい。そのDNAは英国からアメリカには伝えられていない。根本的なところでアメリカは英国的国家ではなくドイツ的国家なのである。その関係の中で、アメリカは何度も英国をいたぶったし、戦争へ至ったとしても不思議ではないケースもあった。しかし英国は、戦術的な要素に引きずられずに戦略的な基本方針を維持したのだ。
これは覇権国家の移動をマネージすることで、エントロピーを減少させる試みであった。
英国の例を見れば、変化をマネージすることで穏健化するのが是だとしても、ただついていく、だけでは駄目だということは言える。将来を見通し、戦略的視点を伝え、教育し、理解させ、より大きな利益の中で現状維持国と現状変更国の利害をアウフヘーベンさせてゆく、そうした理想的な移行関係が米英外交史においては見られる。
戦国時代の日本に当てはめてみれば、踏まれても蹴られても織田家に着いていった徳川家の戦略に似ていて、徳川家の戦略はそれで正解だったわけだが、徳川家から織田家に対して、天下布武へのロードマップについてもっとサジェストがあっても良かったかも知れない。その中で、織田家の隆盛が単に織田家のみの隆盛ではなく、秩序の回復と言う国家的な利益につながり、その中で徳川家は十分な利益を得られるということを合理的に示すことが出来ていたならば、信長は合理主義者だから、合理的に考えて徳川をいたぶる必要を認めなかったかも知れない。
「合理的なエゴイスト同士の間では話が通じる」
のである。