ブログ凍結

FCブログで歴史寄りのブログを書いていたのだが、もう何年も放置していて忘れていた。先日思い出して行ってみればなんと凍結されている。
アカウントの方から入ってみようとしたのだが、なにやら「規約違反」をしたらしい。したらしい、と言ってももう何年も使っていないアカウントだ。何かの間違いだろうとは思うが、わざわざアカウントを復活させるほどのこともない。こうやってネット上のブログが知らないうちに死んでいくこともあるのだな、と思った。

竹内まりやの「駅」という歌に、

今になってあなたの気持ち
初めて分かるの 痛いほど
わたしだけ愛してたことも

という部分があるのだが、このラストのフレーズ、二通りの解釈があるようだ。
「付き合ってた頃は、あなたの愛が信じられなかった。あなたは私を愛していないと思っていた。だからあなたを責めて、結局別れてしまった。今こうやって時が過ぎて、偶然にあなたを見かければ、初めてあなたの気持ちが分かる。あなたは確かにわたしだけを愛していたのだと」
という解釈と、
「あなたは優しくて、私にあわせてくれていただけ。私は愛し合っていると思っていたけど、今、時が過ぎて、振り返ってみれば分かる。愛していたのは私だけ。ただ空回りしていただけだったんだと」
という解釈がある。
僕は、何の疑問の無く後者の意味だと思っていたが、前者だという人も多い。
というか竹内まりや自身は前者の意味で書いたらしいのだが、それならこんな紛らわしい書き方をするなよ、と言いたい。前者の解釈は、悔悟、というニュアンスがあってそれはそれでいいのだろうが、後者の解釈の方が孤独の悟りがあっていいように思う。

陰謀論を考える

8.5秒バズーカーのネタ、ラッスンゴレライが原爆犠牲者を揶揄している反日の意図があるのではないかと噂されている問題で、モーリー・ロバートソンが書いた「ラッスンゴレライのデマ拡散で考える、なぜ陰謀論で物事を単純化するのか」を読んだが、まったく説得される部分がなかった。
陰謀論と同程度に、あれは陰謀論だよという決めつけだけで証明完了とする態度は、それこそ陰謀論的なのではないのだろうか。
私がこう思うのは、私自身、過去に北朝鮮による拉致犯罪を、それが発覚するまでは陰謀論と考えて北朝鮮在日朝鮮人を批判する勢力を批判してきたという錯誤の経験があるからである。
拉致犯罪について言えば、あれを行うことが北朝鮮の国家利益につながったとは考えにくいし、日本語教育を行う日本人スパイを養成するという一見ありそうな名目でさえ、普通に考えれば、日本語ネイティヴ北朝鮮人や在日朝鮮人も多いことを踏まえれば、わざわざああいう害ばかりあって過激な策を採るとは考えにくい。
私はそう考えたのだが、北朝鮮は実際にそういう損得勘定から言って不合理な策を採っていたわけで、国家にしても組織にしても、ホモソーシャルな社会ではえてして合理的な判断が通用しない、非合理で過激な手段が採用されやすいという傾向的事実がそこにもあったのだ。
何らかの組織が絡む陰謀論では、損得勘定から判断してそれが合理的か否かで、陰謀論の妥当性を判断すると言うやり方では、非合理的なプレイヤーの行動を捉えることは難しい。マキアベッリの言う、「現実主義者が失敗するのは相手も現実主義者だと仮定するからだ」という言葉の実例である。
だがそうした限界を踏まえたうえでも、感情や負の衝動の側面を無視しないにしても、おおむねは少なくとも損得勘定では合理的な行動をとるだろうという前提の下で、根拠を吟味するしか、陰謀論と、何らかの意図を隠すために陰謀論批判を利用しようとする主張の妥当性を考察することは難しい。
ローゼンバーグ夫妻の件にしても、ハリー・デクスター・ホワイトの件にしても、カチンの森の虐殺にしても、当初はあれは陰謀論だと言われながらも後で事実であったことが証明された件は多い。ロバートソンはその事実でさえ恣意的につまみぐいされるとして、「根拠」の「根拠性」をフラットに疑念を提出しているのだが、それ自体はそうだとしても俯瞰的な事実を積み上げていくことによってしか、真実に接近していく以外の手段はないのである。ロバートソンの考察が、実際の一案件に対する考察としては無意味なのは、その作業自体を怠っているからである。

岡田斗司夫告発者を美しくないと感じる理由

その前に。
岡田斗司夫と入力しようとして手間取った。こういう当て字系の一般的表記ではない名前はすごく迷惑である。辞書登録しなければいけないのか。
ここしばらく岡田斗司夫が炎上している案件については、当人に対してはまったく同情を感じない。たまたま岡田氏が「アオイホノオ」で取り上げられた直後のことでもあり、その作品が好きで小学生の頃から島本作品を愛読している私としては岡田氏のせいでケチがついたようでいい気分ではないが、そこまでは岡田氏も責任はとれないだろう。話のついででなんだが、島本先生、小学館漫画賞受賞おめでとうございました。贈られるのが遅すぎました。
この件で私が岡田氏に失望したというか、見損なったのは、あんなにセックスばっかりしていたら、オタク評論家としてきちんと作品にあたることなんて到底無理だろうという一点のみである。物理的に時間が足りないはずだ。この辺は例のナチスの小話に似ている。誠実な評論家であればインプットの時間に追われてセックス狂になんてなれるはずがないのだ。
それ以外のことは彼の私生活のことなのでどうでもいい。「合意の上で」セックスをしたなら、大人同士のこと、誰を批判するのもおかしな話だと思う。岡田氏のやり口が詐欺師めいていて、マインドコントロール的で、人格的にはどうかとは私も思う。友人にはなれないと思うし、できれば一緒に仕事もしたくない。
だが、相手の女性を一個の成人した人格として尊重するならば、それでも「それでいい」と言ったからには誰であれ自分の言動の責任は引き受けなければならない。
岡田斗司夫の元愛人のつぶやき 1-10
この告発者にさっぱり同情できないのは、その言動の責任を引き受ける覚悟がまったく感じられないからである。
ひとつひとつ、私がそれはちょっと違うんじゃないかと思った点を挙げてゆく。


1.養わなければならない祖母がいるのに、収入が不安定な、というか収入獲得手段になっていないイラストレーターという職に固執している点
彼女はこれに「いかに自分がせっぱつまっていたか、だから冷静な判断力を失っていたとしても仕方がないよね」といういいわけとして用いるために言及しているが、フリーのイラストレーターが収入が不安定なのは子供でも分かることで、イラストレーターとして地位を確立しているならばともかく、そうではないならば、その状況に対応する平均的な答えは、安定的な収入を働いて確保する、ことだろう。決して、イラストレーターという金になるかどうかも分からない道をひたすら進むことではないはずだ。その解を選ばずに「どうしようどうしよう」とせっぱつまっているだけだったのだとしたら、私が彼女はこういう人と認識する可能性は二つしかない。成人としてありえないほど致命的に頭が悪いか、責任を背負う覚悟が一切ない自己中心的な人物か、どちらかだ。私は後者だと判断した。
2.岡田氏の申し出を受けたにもかかわらず、いいわけをしている点
告発者は、編集者に紹介してくれなんて自分からは言っていない(だから枕営業をする気はなかった)と言っているが、であれば即座に岡田氏の申し出を断れたはず。やったことは枕営業をサジェストされてそれを受けたと言うことだけである。
3.結局関係はご破算になった点
ご破算に出来ないよう圧力をかけられたとかならともかく、ご破算になったのだから、そこで終わった話ではないだろうか。


岡田氏のやり口がどうだという意見はもちろん人それぞれあるだろうし、私としてもそう言うやり方はまず第一に作品の質を低下させるので、誠実さのかけらもないやり口だとは思う。
しかしこれは法的にはグレーゾーンですらない。明白にシロである。違法性があると言っている人はどういう根拠があってそう言っているのか示すべきだ。岡田氏のような人、そして得てしてインテリヤクザは、こうした法の境界について以上に詳しいし悪用しているとも言える。だが法に実際に境界が必要である以上、シロはシロなのである。そこで泣きわめく告発者の方が英単語の原義的な意味でナイーヴなのだ。社会人として落ち度が甚だしい。成人していて世間知らずなのは誰のせいでもない、ぜんぶ当人のせいである。
一方で、この告発者がやっていることは、おそらくは名誉棄損に相当する。告発者が、岡田氏が吉本興業から解雇され、大阪芸術大学での職を失職することを望んでいると明記しているように、明らかに岡田氏の社会的地位を毀損する目的でなされている。
こういう犯罪者に加担する人はよほどどうかしていると私は思う。
告発者が女性だからと言って、内容が女性のセックスにからむ話だからと言って、無条件に共感する、それを肯定するのであれば、女性にはもうまともな判断能力がないと言っているに等しいから、それで話が通るようなら女性から参政権を取り上げるべきだ。こういう女は女性にとってこそ迷惑な存在だろう。
ところで枕営業があるかないかと言われれば、私はある、と思う。ただ、それはごく一部の話だろうと思う。枕営業で人事を行使することは、作品の質を低下させて、編集者当人の食い扶持を奪うことになるからである。
この告発者もアドバイスは編集者から聞けばいいのだ。この絵柄ではちょっとと言われているならば絵柄を変えればいいのだ。売れないから採用されないのであって売れる画を描けばいいだけの話であって、それが出来ないというならただ才能がないだけ、才能がないならアドバイスなど貰ってもどうしようもあるまい。「ただ岡田氏からアドバイスが欲しかっただけ」という言い訳もひどくずれている。
努力の方向性がずれているということは才能がないということと同じだ。

川崎の事件について思うこと

何をどう書いても「弱い者たちが夕暮れ、更に弱い者を叩く」になりそうで、なかなか言葉にしにくい事件だった。
僕はあの事件の加害者、彼らの中にも被害者である部分があるのを感じている。だからと言って罪に問うべきではないとか、社会のせいだと言いたいのではない。でも、加害者の少年が、混血児としてこの日本社会の中で生きていくうえで、周囲の環境がどうも理性的に道を示せるような状況ではなく、肩肘を張って生きていかなければならないだとしたら、ああいう解になってしまうのもなくはないのではないかと感じている。
被害者の少年も、事前にああまで殴られていて、それでいて周囲が何も気づかない、何の手助けもしないというのも普通ならば考えにくい。考えにくいから林真理子は被害者の母親を責めるような文章を書いたのだろう。だが、普通が普通として手に入れられないからこそ、それを過酷と呼ぶのであって、その過酷さが川崎にあった、もっとはっきり言えば、地方の困窮者がどうにもならなくなって首都圏に流入する際に、いかにもそこに住みそうな低所得地域にあった、その現実をまずは踏まえなければならないと思うのだ。
加害者の少年もその親も、被害者の少年もその親も、どちらも恵まれた、というか普通の境遇には無かった、ということを踏まえれば、まずはそのことを目を見開いてしっかりと見るべきなのだ。そのうえで、石を投げる権利が自分にあると思うのであれば、僕から見れば林真理子の方がよほどどうかしているように見える。
確かに、どこかのところで誰かが何らかの形で手を差し伸べていたならば、こういう風にはならなかったんじゃないかと思う。そのにがさを噛みしめるならば、僕たちは別の場所で誰かに手を差し伸べることしか出来ないのではないか。
それは加害者を悪魔のように扱ったり、まして被害者の親を責め立てることでは全然違うはずだ。

ネズミ嫌い

僕はネズミが、「動物のお医者さん」の二階堂レベルで嫌いなので、正直言ってネズミをペットにする人の気が知れない。ただ、なんで嫌いなんだろうと言う疑問はある。
生物学的に言えば、ネズミはヒトにかなり近縁の生き物で、ウサギやツパイなどとともに、真主齧上目を形成している。別系統のローラシア獣上目に属するイヌやネコが従兄弟ならば、ネズミは兄弟なのだ。
ゾウはここから更に縁遠いのであって、はとことか、そのあたりの関係になる。
ネズミはごく単純な哺乳類と思われがちだが、その群れの中から私たちは生じたのであって、イヌやネコ、ゾウをそれなりに知能がある動物と見なすならば、知能は直線的に一本線で獲得されてきたものではなくて、並行的に生じたものらしい。
今のネズミも放っておけばそれなりに賢くなりそうで、それはそれでなんだか嫌だ。
クジラやイルカをヒト同然に扱うなら、まずはネズミをそう扱えよ、という話なのであった。

西原理恵子の営業妨害になるんじゃないのか

最近叩かれている岡田斗司夫が、高須クリニックともめている件で、高須医師に謝罪云々はいいとして、西原理恵子をビッチと言った件についても謝っているが、この件についても何か言われたんだろうか。西原と高須は交際しているのは明らかにしているが、ふたりでワンセット、みたいにしゃしゃりでてくるのは気持ち悪い。
確かにビッチと呼ぶのは侮辱表現になるが、文脈上、あそこはギャグとして言ったまでで、島本和彦が学生時代にアパートに女を家に入れていたけれど何もしかるべきことはなかった、という話を西原が「そんなことありえねーよ」と突っ込んだ、という話を島本がしたところ、岡田が「そりゃ、西原がビッチなだけでそういうことはいくらでもある」と言った、西原はそもそもビッチ売りしてるんだから、この程度で地雷になるなら西原のマンガなんて全部アウトになるんじゃないか。
岡田と島本、島本と西原と言う友人関係があればこそ成立する話なのに、ビッチという言葉だけを抜き出してどうこう言うのは西原にとっても営業妨害になるんじゃないのか。
「5時に夢中」で揉めてた時から、なんかこのカップルのセット感、きもいわーと思ってたけど、高須先生、それは西原が本当に望んでいることなんでしょうか。愛が先走りしていないか、あるいは仮に望んでいたとしても商売戦略上それはどうなのか、立ち止まって考えた方がいいのではないでしょうか。