川崎の事件について思うこと
何をどう書いても「弱い者たちが夕暮れ、更に弱い者を叩く」になりそうで、なかなか言葉にしにくい事件だった。
僕はあの事件の加害者、彼らの中にも被害者である部分があるのを感じている。だからと言って罪に問うべきではないとか、社会のせいだと言いたいのではない。でも、加害者の少年が、混血児としてこの日本社会の中で生きていくうえで、周囲の環境がどうも理性的に道を示せるような状況ではなく、肩肘を張って生きていかなければならないだとしたら、ああいう解になってしまうのもなくはないのではないかと感じている。
被害者の少年も、事前にああまで殴られていて、それでいて周囲が何も気づかない、何の手助けもしないというのも普通ならば考えにくい。考えにくいから林真理子は被害者の母親を責めるような文章を書いたのだろう。だが、普通が普通として手に入れられないからこそ、それを過酷と呼ぶのであって、その過酷さが川崎にあった、もっとはっきり言えば、地方の困窮者がどうにもならなくなって首都圏に流入する際に、いかにもそこに住みそうな低所得地域にあった、その現実をまずは踏まえなければならないと思うのだ。
加害者の少年もその親も、被害者の少年もその親も、どちらも恵まれた、というか普通の境遇には無かった、ということを踏まえれば、まずはそのことを目を見開いてしっかりと見るべきなのだ。そのうえで、石を投げる権利が自分にあると思うのであれば、僕から見れば林真理子の方がよほどどうかしているように見える。
確かに、どこかのところで誰かが何らかの形で手を差し伸べていたならば、こういう風にはならなかったんじゃないかと思う。そのにがさを噛みしめるならば、僕たちは別の場所で誰かに手を差し伸べることしか出来ないのではないか。
それは加害者を悪魔のように扱ったり、まして被害者の親を責め立てることでは全然違うはずだ。