映画「20世紀少年」と映画「崖の上のポニョ」の感想

先週、表題の邦画二作品を続けて観た。
このところ邦画ばかり観ているというか、直近に観た映画5作品はいずれも邦画だったので、私個人の経験だけで言えば確かに洋画離れは進んでいる。
最後に観た洋画は「クイーン」だったか、「麦の穂をゆらす風」だったか。
ハリウッドの「超大作」にはどうにも食指が動かない。どれを観ても同じという感じもする。「インディ・ジョーンズ」がまた製作されているそうだが、この年齢になってジェットコースタードラマを観ればいったいどういう感想を抱くのだろう。
かつては大興奮、大満足で観たものだが。なにごとにも飽きはくる。そして誰もが老いてゆく。


20世紀少年」と「崖の上のポニョ」は一方が詰め込みすぎ、一方が空虚過ぎという対照を成しているが、どこか似ている。
作品の主題があって、物語があって、場面があって、演出がある。
そうした優先順位のオーソドックスなありようからすれば、どちらもその標準から外れている。
現代国語の試験問題のように「作者の言いたいこと」が文章で明瞭に提示可能である必要はないが、作品を貫くテーマは、制作の動機そのものなので、それが希薄だと言うことはつまり、作品自体の切実さが希薄だということになる。
20世紀少年」には、主題がなく、物語と場面と演出はある。
崖の上のポニョ」には、主題がなく、物語もなく、場面と演出はある。
しかしそれは今に始まったことではなく、「20世紀少年」の原作者で脚本も書いた浦沢直樹、そして「崖の上のポニョ」の監督の宮崎駿はもとからそういう作風の人だ。
彼らには「語るべきこと、語るにたること」がまったく欠如している。
彼らの価値はそういう部分にはないのだが、「語るべきこと」の欠落が成人としての幼稚さの表れだとすれば、彼らはしごく日本的で、日本的な幼稚さの体現者である。
文学のエピゴーネンとして始まった漫画やアニメーション、そして映画が一般教養としての文学の根っこをまったく欠いて、独自の表現技術の中に埋没していった、彼らはそのファーストジェネレーションであり、「最初期の子供たち」である。
その閉鎖的なオタク性が表現者ではなく表現技術者としての彼らの切磋をもたらしたのだろうし、構造を持たないジャポニズムという意味においては歴史的な日本文化の継承者でもある。
宮崎吾郎監督の作品「ゲド戦記」は確かに私も駄作だとは思うが、その駄作の理由の解説については、当時、語られていた論説の多くには違和感を抱いた。
主題の希薄さ、唐突さ、物語内論理の不徹底、「ゲド戦記」に見られた作品としてのそれら欠点は、宮崎吾郎監督作品のみに見られるものではなく、ジブリ作品の多く、特に宮崎駿作品にも顕著に見られる傾向だからである。
そうした欠落が駄作の理由となるのであれば、宮崎駿監督は確実に駄作の人であって、そうした文脈で見る限り、氏は確かに駄作の人だというのが私の評価なのだ。
もちろん、映画は必ずしも文学のエピゴーネンではなく、絵画でもあって、その観点にたって宮崎駿の作家性を救出することはできる。
つまりテクニカルな手法として、宮崎吾郎を切り捨て、宮崎駿を救出するためには、主題の希薄さを基準とすべきではなく、コンテキストから切り離されたテキストとしての部分ごとの演出の絵画性の徹底の度合いでもって比較するしかない。
どのみち、わずかな釉薬の跡の具合で値段も評価も天地ほどに分かれる茶器のごとく、そうした「縮み志向」の趣味性自体が不毛といえば不毛である。それが文化であるという見解もあるだろうが、私は絵画的な人間ではまったくないので、不毛だと思う、自らの感覚を優先する。
日本のサブカルチャーはそうした不毛の池に浮かぶ蓮のごときものだ。
浦沢直樹宮崎駿はそうした蓮の上に立つ、金色の観音像の如くで、美しくはあるが、しょせんは木像である。
本業が映画製作者ではない浦沢直樹はともかく、宮崎駿はいい加減おのれの空虚さを自覚すべきなのではないか。彼のマスターピースは他人の主題の上に描かれたものほど、出来がいいのだ。
ジブリが甘やかしすぎているのだと思う。