大河ドラマ平清盛について

大河ドラマ平清盛」は記録的な低視聴率だそうで、あのドラマを高く評価する人もいるが、余り触手が動かない人が多いのも当然のように私には思える。良いか悪いかで言えば昨今の大河ドラマの水準から言えば「決して悪くはない」のだが、それだけに広範囲のファン層に訴えかけるものが少ない、例えば「江」や「天地人」であれば水準から言えばごく低劣なものであったのだが、女子供に訴えかける「分かりやすさ」や「有名なエピソード」はあったわけである。
平清盛」はそういうものが少ない。そういう意味では、昨今の大河ドラマのマンガ化に批判的な向きにはそれだけで評価する人もいるのだろうが、では歴史ドラマとしてはどうかと言えば、制約や難点が多いのも事実だろう。
 甘党ではなく辛党に向けた作りになっているが、酒の出来そのものに難点が残るがゆえに甘党に酒の魅力を伝えられない、辛党をも満足させられないという残念な結果に終わっていると思う。
 私が思う残念な点はだいたい以下のとおりである。


1.平清盛武家の世を開くというような理想を持っていたわけではない。歴史上の彼はただ一門の繁栄を留意しただけであって、それが彼の立ち位置であったし、平家没落へとつながる限界でもあった。なぜ、ありのままに描いていけないのか理解に苦しむ。現実の清盛がそうした理想的な人物ではなかったために、言っていることとやっていることの乖離がドラマでは生じて、言っていることがいかにも薄っぺらくなっている。


2.昨年の大河ドラマ「江」でも感じたことだが、ナレーションは重要である。下手な役者を用いては作品世界に入り込む以前に、言葉として処理する時点で呑み込み難さが全編に渡って生じてしまう。ナレーションと源頼朝役をこなしている岡田将生さんは、若い俳優さんの恐ろしいところでこのところぐんぐん成長しているが、逆に言えば最初の頃はいかにも未熟であり、はっきり言えば下手だった。初回の頃はもちろんこなれていないわけで、この下手なナレーションに一年付き合わなければならないのかと気鬱になった。そういうリスクを避けるためにも、ナレーションには専門家もしくは演技力に定評があるヴェテランを起用すべきだろう。


3.清盛が白河院落胤という立場に立つのはいいとしても、延々とその青年のアイデンティティの問題を主題の中心に据えてしまったため、清盛の印象がいかにも頼りなげなものになってしまった。相国となってからでさえ、松山ケンイチさんが演じる清盛はその辺のお兄ちゃんのようであって、決定的に威厳が足りない。後白河院や二位ノ尼もそうであるがどうして老けメイクをしないのか、理解に苦しむ。有能であり将帥の器であったとされる平重盛を演じる窪田正孝さんが好演しているだけに、清盛の威厳の欠落ははっきりと「格落ち」を意識させてしまう。
過去の源平者、「新平家物語」等では清盛の出自はさらりと流されていて、平家一門の栄達のためという身もふたもない理由を徹底させているために、一個人のアイデンティティの問題というような「甘さ」が割り込む余地はなかった。そうした権力劇として描くのではなく、個人の内面にも深入りするというのであれば、明らかに伊勢平氏の「血統」を重視する言動を見せている池ノ禅尼の内面にも、伏線のような扱いではなくもっと踏み込むべきであっただろう。


全体に言って、作為が顕著な作品である。作為は重要であって、戦国物のような作品であれば、扱う題材よりも切り口の方が重要になるが、平安末期の時代はそれほど一般に知られていない。もっと素直に、淡々と描くことも可能だったはずである。初期・中期のそうした大河ドラマと比較して、無駄に作為が空回りしていると見られる場面も少なくない。
たとえば悪左府の志のようなものを描くのであれば、彼を公家的な旧体制と描く場面は不要であって、単にその時点時点での平氏・清盛の仇役扱いにした結果に過ぎないように見えて、作為の矛盾を引き起こしている。
個々は悪人ではなくても立ち位置によって齟齬をきたしてしまうのが歴史のうねりであって、それを描くのが歴史ドラマの醍醐味であるのに、場面の必要に応じて矮小化する、あるいは逆に理想化するという作為が張り出しているため、全体のうねりがかき消されてしまっていると感じた。