専業主婦世帯と奴隷制

現に専業主婦である者、専業主婦世帯に属する者、専業主婦の存在から恩恵を受けてきた者にとって、専業主婦制度に対する批判そのものが自分たちへの人格的な攻撃だと捉えられがちなのはやむを得ないのかも知れない。
こうしたことはよくあるものだ。
例えば郵政民営化に際して、形骸化し、既得権益化された特定郵便局の問題、政治団体としての郵便局長会による政治介入が指摘されたが、そうした現にある問題が指摘されれば、郵便局のユニバーサルサービスの使命で相殺しようとする。
よく考えれば、といってそれほどよく考えずとも、何かの問題が指摘されて、それとは別件の何かの利益で相殺するのはまったく整合性に欠けるのだが、こうしたことは確かによくあるものだ。
専業主婦とは何か。
専業主婦とは、主に配偶者によって扶養されている労働人口、詳細に見ていくならばそれがもっとも的確で、簡単な定義である。
つまり、家事、育児、介護などなどは専業主婦である要件ではなく、これらケアワークの存在ならびに必要と、専業主婦を絡めて論じるのはまったくナンセンスだ。
専業主婦を制度として論じる場合は、現にどのように社会制度において定義されているかを見るべきであって、社会制度における定義においては、育児も介護も家事もPTA活動もリンケージされていない。
つまりそれらケアワークにまったく従事していない専業主婦も存在し得るし、実際に存在する。
もともと社会制度における定義としてケアワークとリンケージされていないのだから、リンケージされていない存在として定義するよりない。
いわゆる専業主婦問題の重要にして大半の問題はここに起因している。
仮に専業主婦が確実にケアワークに従事しているならば、専業主婦「も」優遇する根拠にはなり得る。
その場合、専業主婦を優遇する根拠がケアワークへの従事だとするならば、ケアワークに従事しているすべての立場の人たちに優遇を拡充するのが本当だと思うが、そうであれば重要なのは専業主婦かどうかという属性による判断ではなく、ケアワークに従事しているかどうかという行為による判断である。
現状は、そうはなっておらず、ゆえに非常に問題が多い制度になっている。


第一に、ケアワークの行為によって優遇の是非が判断されておらず、専業主婦という属性によって判断されている。
第二に、専業主婦という属性とケアワークへの従事が一致していない。
第三に、ケアワークへの従事の有無が、所得水準によるソートを受けていない。


こうして整理すれば現状の専業主婦世帯への優遇の問題は明らかであるのだが、単に既得権益を守りたいという以上の動機があると想定した場合、専業主婦当事者からも是正の動きが出ず、それどころか是正の主張に対して感情的な反発が寄せられるのはまったく解せぬことである。
例えば奴隷制があるとして、ではおまえたちも奴隷制のシステムに乗っかればいいではいいではないかというのは通らないし、奴隷制の内部にあってそこから利益を享受している者たちがまったく批判されないと言うこともありえない。
望むと望まざるとに関わらず、社会制度における定義にあっては、専業主婦と専業主婦世帯は、加害者になっているのであって、その加害者性は個人としての専業主婦の状況がどのようなものであっても棄却はされない。
夫は仕事で忙しく、子供をふたり抱えて、いっぱいいっぱいになって子育てをしている主婦であっても、この不完全かつ矛盾した制度によって優遇を受けている限り、加害者である。
こうしたことはべつだん道徳的な問題と言うよりは単に制度の問題なので、制度を改めればいいだけのことだが、制度の不備を知りつつそれを改めることをしない、そればかりか改めようと言う主張を阻害する行為は、これは道徳的な加害である。
つまり制度的な加害者が制度における加害を指摘されて感情的に反発するのは制度的な加害の枠外を越えて、道徳的な加害である。
こうした現象に私が解せぬというのは、道徳的な加害をデフォルトな状態だとはみなしていないからであって、制度は道徳的には加害にならぬ倫理の上に築かれるべきものという意識があるからだ。
道徳的な加害が生じているにもかかわらず、弱肉強食のような、政治を数とみなし、その偏重を数による成果と見る態度は、政治とは倫理であるとする法の支配の枠外の論理であって、選出の過程においては民主的な政府によってホロコーストを実施したナチズムとなんらかわらぬ態度である。