前略、村上春樹様

文藝春秋平成二十一年四月号に掲載されたインタビュー記事「僕はなぜエルサレムに行ったのか」を拝読しました。
それについて、あなた様宛という形で、自分の思うところを少々述べたいと思います。
まず、前提の知識として、村上春樹文学を私がどのように捉えて来たのかというのを簡単に述べておくのも無為ではあるまいと考えます。事は政治と文学の話なのですから、政治に語ると同時に文学についても語るべきなのでしょうから。
私はある意味では熱心な村上春樹文学の読者ではありません。世には非常に熱心な村上春樹文学ファンがいて、彼らのように身も心も委ねるような陶酔はそこにはありません。
しかしそれで言うならば他のどの作家にも私はそのような陶酔は抱かないのですが、あなたのお書きになるものが、私にとっては非常に印象深いものであったのは確かです。
村上春樹文学ファンの中でも少なからずを占めるであろう「村上春樹しか読まない」ような人では私はありません。また、これは悪癖と言うべきでしょうが、ベストセラー作家に対してはむしろマイナスの先入観を抱きがちな傾向が私にはあります。
それでいてなお、あなたがお書きになられるものに、私は「忘れ難い」感情を抱いてきたのでした。特に「ねじまき鳥クロニクル」を読んだ時は、実生活にまで影響が侵食してしまい、一週間ほどはまともに機能しなかったので、困りました。
日本語で一般に市販されているあなたの著作にはおおよそ目を通しています。
翻訳者としてのあなたのお仕事にはより素直に感謝をしています。おそらくあなたがご紹介しなければ日本ではそれほど知られることがなかったに違いない何人かの作家の作品は、確かに傑出したものばかりでしたから。

あなたが過去に表明なさったご意見のうち、どうしても納得しがたいことがひとつだけあります。
それはあなたが投票を行ったことがないと公言なさっておられることです。私は世のすべての人が投票をすべきであると言いたいのではありません。
また、投票をしないという選択が個人の自由のうちにあるのも知っています。
しかし例えば、2005年の衆議院選挙で私は自由民主党とその候補に投票しました。世に言う、郵政選挙です。
私はあの時点で、郵政民営化はなされるべきであると考え、国民の多くが支持し、首相が遂行しようとしている政策が手続きの筋道を度外視して、否決されるようなことがあっては日本の民主主義にとってはよくない結果をもたらすと考えました。
今でもその考えに変わりはありませんが、無論、そこからもたらされた結果に対して、私はすべてを是としているわけではありません。
批判者たちは、私を含めた自民党に投票した人々の投票行動を批判しますし、私としても中には胸に突き刺さるような批判があるのを認めないわけにはいきません。
是非いずれをも含めて、ひとりの投票者としての私の責任です。
ただしそのような鈍い痛みはそれに限ったことではなく、私はその一例を除いてそれまで、そしてそれ以後の投票ではほぼすべてにおいて、いわゆる革新系の政党に投票してきましたが、それでもやはり同じような痛みは感じたものです。
あの時、民主党に投票したとしても、やはり何らかの「後悔」はあったでしょう。
拉致問題が発覚した時、私はかつて社会民主党に投票したことをより強く自分に恥じたものです。
政治に、一有権者として向き合うということは、その恥をおのれがうちに蓄えると言うことです。
私たちはすべて政治的な存在であり、政治から逃れることは出来ません。
たとえ、投票を放棄したとしても、放棄した結果から逃れることは出来ません。
ライヒシュタークの選挙でナチスに投票した人たちはより強くナチスの暴虐の責めを負うべきでしょうが、社民党にも共産党にも人民党にも投票したくないからと言って棄権した人も結局はナチスの時代を止められなかった点では同じことです。
「政治的であることをやめる」ことをすれば政治から逃れられるともしあなたがお考えであるならば、そして私は確かにかすかであってもその匂いを感じるのですが、それはあなたのおそらく幻想でしょうという意見を申し上げておきます。
あなたには「アンダーグラウンド」という著作もあります。そういう形で、成人としての義務に応えてようとなさった、そうした意図はわかります。
しかしそれらと投票行動は決して二者択一ではなく、投票しない者は現実の政治において、無力です。
そして私たちは現実の政治の中に生きているのです。

非常におこがましい話ではあるのですが、今回のエルサレム賞についても、私がもしあなたであれば、ということを考えてみました。
あなたの逡巡やお考えは「気持ち」としては分かります。
しかし結論から言えば、私はやはりあなたはあの賞をお受けになるべきではなかったと思います。
あなたもおっしゃっておられる通り、イスラエルには先進国と比較してそう遜色のない言論の自由があり、ある意味、あなたやソンダグの批判は織り込み済みです。
批判もまた体制の強化につながる、そうした強さが民主主義社会にはあります。
そしてイスラエルが陥っている袋小路は、民主主義の結果、つまり個々の平均的なイスラエル人の市民的感情の集合としてもたらされている面があります。
そうした時には最善ではないにせよ「より悪くない」選択としてはそれこそそこから逃れようとすること以外にあるとは思えません。
少なくとも政治的には。
ユダヤ人には他のいずれの民族も経験したことがないような悲劇の歴史があります。
イスラエル国家の過剰防衛がその悲劇の歴史に根ざしているのは明らかです。私はよく時事問題を扱う英語のサイトを覗くのですが、そこで書かれたイスラエル批判の意見の中に少なからず反ユダヤ主義的な意見があるのを知っています。
そうした意見はイスラエルをよりかたくなにするだけでしょう。
そういう意味では、少なくとも対話を維持しようとしたあなたのやり方がまったく間違っていたとは思いません。
しかしそこではおそらく言葉はあまり現実的な意味を持ちません。民主主義は言葉の政治であり、イスラエルは民主主義国家です。既にそのような言葉は多数あり、その中のひとつになったところで集合知を肥大化させる効果しか持ちません。
より遠い到達点としては、理屈だけではなく感情を理解することも確かに必要です。
それは文学の、あるいは目的のひとつであるかも知れません。
私は多数、外国の多岐に渡る時代の文学作品を読んでいますが、いつもいつも驚くことがあります。それは人間の喜び、苦悩、怒り、恐れ、それらがいついかなる時代、いかなる地域にあっても変わりはないということです。
私は、そしてあなたは第二次世界大戦の敗戦国の人間です。おそらく私がそうであるように、あなたも日本人であることを理由に責められたり、自己批判を求められたことがおありでしょう。
私はリビジョナリズムを支持はしません。しかし当時の日本人の庶民を直系の先祖に持つ者として、彼らの素顔が単なる侵略者であったとも思いません。
しかし国家として侵略があったのもまた確かです。
私たち日本人はそのような複雑な生き方を強いられています。そのことはむしろ物を考える人間にとっては幸福なことなのでしょう。
私たちはオーストラリア人のようには、帝国主義の成果を享受しながらおのれが純粋無垢であるかのように信じられるような境遇にはありません。
しかしだからこそ新しい未来は私たちの中から生じるのです。
悲劇は、狂人や暴虐によってのみ引き起こされるのではなく、いやむしろ、素朴な人々や、普通の幸福の中から生じます。
そのために、敵を人として見ることが、悲劇を理解するためにはどうしても必要です。
文学はそのための大事な一助となり得ます。あなたがなさろうとしたことはそういうことでしょう。

しかし私はその声は届かないと思います。届きはしても意味はないと思います。
イスラエル国家が現実に直面している生存の危機、あるいは生存の危機の認識の前には、単なる意見として処理されるのですから。
あなたがお会いした市井のイスラエル人のうち、彼らの多くは世の常として善良であることでしょう、彼らのうちひとりでも、あなたの意見を聞いて以前と考えを変えた人があるでしょうか。
変わる人は最初から変わっているのです。
一方でイスラエル国家、それが民主主義国家である以上、悲しくもイスラエル国民と同義なのですが、それが現在進行形で暴虐を行っているという事実があります。
私たちが対処を求められているのは決して遠い先にある話ではありません。
あなたは作家としての立場からお答えになられました。
私は作家としてのあなたに意見しているわけでは決してありません。
逃れようのない政治的存在でもある一市民に向かって言っているのです。
あなたも看破なさっておられるように、私は安全地帯にいます。これを書くことによって何かを失うことはまずありません。
私がイスラエル国民であれば、また違った感情を抱くのはおそらく間違いありません。私が日本人であるがゆえに、日本の歴史についてより複雑な韜晦を抱かざるを得ないように。
しかしその韜晦を理解するということと、何かしらの「正論」を言うこと、それは決して二者択一ではありません。
インタビュー記事を読んで私が思ったことはそういうことです。
二者択一のものではないものをあなたは敢えてそのように表現なさっておられるように感じました。
果たして「正論」を言っている人は原理主義者でしょうか。彼らの胸のうちに、韜晦がないのだとどうして言い切れるのでしょうか。
その眼差しは結局、韜晦もないままに何かしらを糾弾してしまう想像力を欠いた人たちと同じものなのではないでしょうか。
私は特に悪辣でもなければ善良な人間でもありません。
例えばそういう機会があって、ほぼ発覚しないだろうという確信があって、それをするだけの必要な事情があるならば、収賄をしないだろうと言い切れる自信はありません。
しかしだからと言って他人の収賄を、不問に付すわけにもいかないのも、政治的存在としては当然のことです。
人は泣きながらでも誰かしらを糾弾せずには済まないのです。
もしあなたがそれから逃れられると思っているのであれば、それは幻想です。
世のすべては政治であり、私たちは政治の中に生きています。

長々と失礼いたしました。次回作を楽しみにしております。