王家とナショナリズム

http://d.hatena.ne.jp/zyesuta/20090723/1248327303
面白かった。ただ、私が気になったのはちょっと違った部分。
普仏戦争の遠因となったとされる、レオポルト・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲンの擁立だが、ホーエンツォレルン家は非常に古い名族で、支族が多い。
ジグマリンゲン侯家は確かにホーエンツォレルン一族だが、ブランデンブルク選帝侯家とは家系が違い、父系を遡れば分かれたのは13世紀になる。
ナポレオン3世はいささか、ホーエンツォレルンの名前にこだわりすぎたきらいがある。
ナポレオン没落後もナポレオンの影響は欧州王族に残った。一番有名なのは現在も続くスウェーデンベルナドッテ王朝だろうが、他にもバイエルン王族となったロイヒテンベルク公家(ジョゼフィーヌの息子のウジェーヌ・ド・ボアルネの家系)など、諸王家の祖先となった「ボナパルト一族」は多い。
ジグマリンゲン侯家もそのひとつで、レオポルトも「フランス皇女」ステファニー・ド・ボアルネの子孫であり、広い意味でボナパルト一族の親戚である。
ヴィルヘルム1世とビスマルクとしても、それなりの配慮をしたと言っていいのではないか。


ウェストファリア体制以後、国民国家が形成されていったという理解は間違いではないが、インターナショナルな「王族」が19世紀になってなお存在していたのもまた事実である。
19世紀、ヨーロッパには新たな王国が次々と誕生するが、その殆どの国がデンマーク、もしくはドイツから王を迎えた。
英国女王エリザベス2世の夫君エジンバラ公ギリシア王室の出と言うのは間違いではないが、彼は血統的にはデンマーク人であり、英国に帰化する前はデンマーク王子の称号も保有していた。
その英国自体、ハノーヴァー王朝以後は血統的にはほぼ純粋なドイツ系であった。
新興国の王にどうしてドイツ諸侯が送り込まれることが多かったのかと言うと、要はドイツが分裂していて諸侯の数が多かったというのがひとつ、弱小国ばかりで大国間の妥協が容易であったのがひとつ、そしてドイツには様々な宗派があって、都合が良かったのがひとつ。
ブランデブルク選帝侯家はルター派、後に改宗してカルヴァン派になっているが、ジグマリンゲン侯家はカトリックであり、スペインに送り込むにはちょうどいい。
そのような当時の状況を踏まえると、レオポルトスペイン王として送り込もうとしたビスマルクの判断はごく常識的なものであって、特にホーエンツォレルンの勢威を拡大させようとする意図があるとは見なし難い。
ただ、新興国に送り込まれる王族にドイツ諸侯が多いと言っても、ヴィッテルスバッハやハプスブルクのような名族は含まれておらず、ホーエンツォレルンの名を持つレオポルトを送り込もうとした行為は当時の国際社会の暗黙の了解を踏みにじった、とナポレオン3世は考えたのかも知れない。
ジグマリンゲン侯家がホーエンツォレルンと言っても遠い傍系であることを考えれば、いささか過剰反応気味ではあるのだが。
王朝国家的に考えるならば、(ルイ14世の子孫である)スペイン・ブルボン朝を完全に葬り去ることはボナパルト家ナポレオン3世にとっても必ずしも悪い話ではない。
ただ、フランスの国益から非常に過剰に判断して、ナポレオン3世はこの話に反対したのではないか。
繰り返すが、ビスマルクのこの判断は非常によく練られた、当時としては妥当な落としどころを最初から提示している。
ビスマルクとしてもナポレオン3世がそこまで強硬に出てくるとは思ってもいなかっただろうし、この齟齬は王朝国家意識と国民国家意識の対立がもたらしたものかも知れない。

[補足]
ボナパルト家は亡命者であるから、フランスにおけるボナパルト家は郷里との縁が切れている。ナポレオンにとって、ボナパルト一族と言った場合、それは母と兄弟姉妹のみが対象になるわけで、ネポティズムの対象者が彼にとっては少なかった。
ジョゼフィーヌと結婚後は、彼女の二人の連れ子、ウジェーヌとオルタンスがナポレオンの保護下に入ったのは当然だとしても、ジョゼフィーヌマルティニーク島から単身渡仏した女なので、一族はいない。
兄弟姉妹を王侯につけたことから、ネポティズムの極限のように見られるナポレオンだが、係累自体はごく少ない。
このことがジョゼフィーヌの前夫の一族ボアルネ家をも、ボナパルト一族に取り込む必要を生んだのだろう。同様に、デジレ・クラリーの一族であるクラリー家もそのようにしてボナパルト一族に取り込まれた家系だと見なせる。
第一帝政崩壊後は、ボナパルト家は危険分子としてフランスを追われたが、周縁的なボナパルト一族は欧州諸侯の血統に残った。


ナポレオンの義理の息子(ジョゼフィーヌの息子)のウジェーヌ・ド・ボアルネはナポレオン没落後はロイヒテンベルク公として、バイエルンの王族のひとりとして、欧州諸侯家に息子や娘を送り込んだ。そのいずれもが、ナポレオン、もしくはナポレオーネの名を持つ。
スウェーデン王妃ジョゼフィーヌ、ホーエンツォレルン=ヘヒンゲン侯妃ウジェニー、ポルトガル王婿アウグスト、ブラジル皇后アメリー、ウラッハ公妃テオドラント、ロイヒテンベルク公家を継いだマクシミリアンはロシア皇帝ニコライ1世の長女と結婚し、ロシア皇族として遇されている。
これらの面々がすなわち、皇后ジョゼフィーヌの孫であり、ナポレオン3世(母のオルタンスはウジェーヌ・ド・ボアルネの妹)の母方の従兄弟である。
王政復古期には亡命生活を余儀なくされたナポレオン3世ではあるが、その閨閥錚々たるものであり、伝手を頼ればどこででも顕職にありつくことは出来ただろう。
ナポレオン3世にとっては義理の伯母にあたるロイヒテンベルク公妃アウグステはバイエルン王女であり、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の母、ゾフィー大公女はその伯母の妹にあたる。
ゾフィー大公女はライヒシュタット公ナポレオン2世)とのロマンスも囁かれた女性であり、その次子マクシミリアン(メキシコ皇帝マクシミリアン1世)はライヒシュタット公の胤ではないかとの噂もあった(つまりナポレオンの直系の孫)。
ナポレオン3世は漂泊者ではあったが、決して閨閥の支えがなかったわけではない。


スペイン王に一時擁立されかかったレオポルト・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲンは、血統で言えばブランデンブルク家よりはボアルネ一族に近い。彼の祖母がステファニー・ド・ボアルネであり、ナポレオン3世とは八親等離れた親戚である。