公明党、創価学会のこれから

私は創価学会公明党は嫌いではない。信仰や信心を持ち合わせていないから宗教的情熱自体は、理解出来ないが、創価学会はむしろ現世的な意味合いが強い組織だと思っている。
日蓮宗日蓮正宗自体が元々、都市の宗教で、それはつまり浮泊者を基盤にしているということである。農村的共同体がパトリオティズムであるならば、都市的浮泊者はナショナリズムに傾倒すると私は先だって言った。
日蓮宗系仏教とそこから生じた創価学会は言わば都市的フリーメーソンのようなもので、ナポレオンの自由帝政が社団国家を崩壊させたのと同様の意味合いと志向を持っている。
レーニンが自らの権力基盤と正当性をプロレタリアート(工場労働者)に求め、農村には求めなかったのと同じだ。
地縁、血縁、学閥、閨閥、資産、家柄、人には様々な形での保護機能を持つ社団があり、創価学会はそれらからはじきとばされた人たちをそもそもの中核に持っている。
共産党がこうした人たちを獲得する上で、創価学会に競り負けているのは、共産党内部に社団的な党内党があるからだ。そうでないと言うならば、東大卒以外を委員長に据えてみてはどうか。
創価学会も結成から80年近くが過ぎ、普通に放っておけば、創価学会内部でアリストクラシーが生じるはずだ。あらゆる組織はいずれそうなってゆく。
そうなる程度が創価学会がかなり小さいのは確かだ。それは池田大作氏が苛烈とも言うべき内部攻撃を頻繁に行っているからだ。
創価学会はいわゆる「自由帝政」の典型例で、頂点の独裁者と末端の民衆が直接結びつくことで、アリストクラシーの形成を防いでいる。池田大作氏に誇大妄想的とも傍からは見えるナポレオンへの傾倒があるのは、単なる権勢への傾倒ではなく、創価学会アイデンティティに関わる要素がそこにあるからだ。
これが80年が過ぎてなお、創価学会が創設初期の性格を強く残していることの理由だろう。
独裁者と末端が直通するためには、ある種の祭り、機会が必要である。
ナポレオンにとってはそれは戦争だった。
あれだけ理不尽な征服戦争に駆り出されても、ナポレオンと寝食を共にした兵卒は絶対に皇帝を裏切らなかった。ナポレオンの場合は、必ずしもそれを計算してやっていたわけではない。彼の個性がそのまま自由帝政だったのだ。
ただ単に徴兵されてつれ回されているだけならば、兵士にとってはそれは「やらされている」戦争である。しかし皇帝の個性に触れ、皇帝に魅惑されれば、「俺が皇帝を支え守る」という能動的な意味がそこに生じるのだ。
狂人的ともいえる自己意識の肥大化は、そのまま、庶民の利益イコール自らの利益、逆もまた真なりという傲慢でありつつ自己犠牲の極限でもあるという、まさしく「セカイ系」を生じさせる。
創価学会員は例えて言うならば、ネルフとして現実世界を生きている人たちなのだ。
ナポレオンにとって、彼が彼であり、彼の帝国が世界性を持つためには戦争が必要だったように、池田大作氏にとっても彼なりの戦争が必要である。
それが公明党を介した選挙なのだ。


選挙のたびに集い、昼夜たがわず活動し、熱心に票を掘り起こし、情勢に共に一喜一憂し、勝利すれば共に我がことのように喜び合う、この繰り返しこそが創価学会の強さの源泉であり、公明党がなければ、他の「新興宗教」のようにとうに衰退していただろう。
創価学会があればこそ公明党は選挙に勝ち、公明党があればこそ創価学会は結束を維持できるのだ。
はっきり言って、勝ち負けは二の次であろう。
であれば、今回、公明党小選挙区で全敗したわけだが、以後、小選挙区から撤退するなど組織防衛の観点から言えば論外だろう。比例でも選挙活動は行えるが、小選挙区でのような緻密さと熱心さには欠ける。
勝ち負けは二の次とは言っても、負けてばかりでは達成感は得られない。小選挙区でも3議席くらいは勝つ算段は必要だろうが、それを踏まえれば、自民党との野党連立解消は、小選挙区での勝利が望めなくなる以上、公明党創価学会にとっては愚策だろう。